TAKESHI
最近はTAKESHIの著作を読んでいる。
こだわりがあるようで、作品によって「北野武」「ビートたけし」の2つの名義を使い分けている。私はどっちのTAKESHIも混交して捉えているので仕方ないからローマ字表記にしている。日本語は便利だ。
(でもタイピングがめんどいので、やっぱり平仮名の「たけし」に統一する。)
たけしは時代劇・ヤクザモノ・青春モノ、多様なジャンルの作品を手掛ける。媒体も1つに絞らず、メガホンを取ったり、絵を描いたり、小説やエッセイを執筆したりと様々。
共通するのは、主人公がアウトサイダーであること。
主人公はおおよそその道を極めた玄人か、そうでなくても一本筋の通った人間。しかしその人間的な魅力とは相反するように、彼らは日陰者で、メインストリートから外れた薄暗い場所で暮らしている!!!
『浅草迄』はたけしが芸人として浅草の舞台に立つ以前のことを描いた私小説。
癖のある両親のことも自分の失態も面白おかしく書いてある。
『不良』はチンピラが選択肢のない環境でズルズルとヤクザになり、理想の任侠道とは異なる大人の保身・策略に巻き込まれていく話。
意思や目標達成がないわけではないのに、どこか転げていく人間共の刹那的輝き。
たけしの映画作品や本が知名度だけで評価されるものだとはどうしても思えない。
海外では高い評価、しかし国内では一部を除いて著名人の道楽扱いで済まされるのでは審美眼もいいところじゃないか。
言い方は悪いが、死後はきっと今以上に作品群が評価されるのだろう。そして流行ってしまえば頭が空っぽのまま飛びついて両手を叩くんだろう。
座頭市 TAKESHI
一つのことをやっている人はこの人には勝てない。
少なくともエンタメにおいては。
現実には刀一本であんなに人や物をぶった切れるわけない。
おもしろさのためには嘘だってついたほうがいい。
時代劇を作ろうとしてタップダンスを用いようなんて誰が思うのだろうか。
本当のことを文献や史実に用いてそのまま語るのもよいけれど、
本当のことを語るために嘘をつくのだっていいじゃないか。終着点は同じ。
けれども目的は大いに異なるのだろう。結構。
好みなものは正しく評価できない。過ぎるか及ばざるか。
評価とはなんて恐れ多い言葉だろう。
しかし好みを捨て、博愛になった人間に魅力を感じないのは何故なんだ。
面白い偏愛は人に優しく、退屈な偏愛は身勝手なのだと信じたいが、それすらも好みに過ぎないんじゃないか。
浅草演芸ホールにゆく
今まで新宿末広亭の深夜落語や、木馬亭、落研の落語会などに行ったことはあったが、演芸ホールにはまだ一度も足を踏み入れていなかった。
浅草というと激しい江戸下町の血が沸き立つというか、ヤジも少しは飛ぶんかなと思っていたが、会社帰りのスーツのリーマン風男性なんかも多く、大半は落語ファンだったが、色物にも結構紳士的で、しっかりとした拍手を送っていた。
今でさえお笑いの王道である漫才も演芸ホールでは色物だ。
ビートたけしがフランス座にいた頃の師匠もコント一筋で、漫才をはじめるなら破門という言葉もあったようだ。
寄席は時代の変容から少し遠ざかったところにある。
浅草はノスタルジーなどこか懐かしいような香りが漂う街だ。その一方、新たな風も舞い込みつつある。
雷門から少し離れた場所にある小さな履物屋・文房具屋、競馬新聞片手に場外競馬場近くをたむろする中年男性、そんな古くからの住民たちとすれ違うのは観光客やそれを取り囲む人力車の若い車夫だけでない。電動自転車にスーパーのレジ袋と幼い子どもを乗せ、颯爽と走る身綺麗な女性、押上付近に続々建てられるタワマンの住民なのだろう。
浅草は旧住民・新住民・観光客の三つ巴で成り立つ街だ。
美化や改修を重ねながらも、古きが猥雑に混ざり合う。それらは不純物なのだろうか。
パントマイム🔰
近頃パントマイムを少しばかりかじっている。
最初に習得したいと思ったのは壁だった。
空間に手のひらと全身のみで対象を浮かびあらせる行為に、創造の根幹を感じたからだ。
マイムの練習は日々の達成感が得にくい。というのも私の経験した学校の勉強や習い事、資格習得といった過去のあれこれは、どれも段階的なスキルアップの上に力を付けていくという方法論から成り立っており、たとえばピアノはバイエルからソナチネへ、一曲ごとに違うことなく鍵盤を弾けたならば充足感を得る。(プロは例外で、「聴かせるピアノ」を生み出すためにスキル習得とは別の感性を磨く観念的な指導を受けるのかもしれない。)しかしマイムは習得すべき基礎的なテクニックこそあれ、それを覚えただけでは到達度を図りにくい。
マイムにおいて最も重視されるのは、mime=真似・模倣、つまり原則はそこに無いものを在るように見せるということ。観察眼が何より求められる。
広義では見たものを再現することの全てがmineであるとも言えるので、レッスンにはゴリラの真似やリンゴを食べる真似なんていうギャグだか正気だかわからないものもある。だが、誰でもできる真似もまたmimeである。パントマイミストは舞台に立つ傍ら学校現場に赴き、特別講師として招かれることもある。子どもたちは自らの目で見たもの・感じたものを、真似ぶ=学ぶ=mime する。
全ての表現様式に通ずることであるが、マイムにも師匠の型の伝承を目的とする者、基礎を身に付けた後は己の表現形態を模索していく者がいる。
画家に例えるなら、前者は強固な師弟関係に基づく日本画、後者は筆や絵の具の基礎的な用途を覚えたら、あとは好きに描きなさいよ、といった美術学校のようなものだろうか。
ということで、マイムの上達には観察が何より重要で、流派ごとに諸々こだわりはあるだろうが正解のない漠然とした世界だと感じた。しかし純粋な観察と再現を高めると抽象度の高いシアター作品に行きつき、観察によって得た再現性に誇張を加えるとストリートや映像などのコメディ作品に到達する。客層の異なる両者の双方がマイムであるのだから、マイムにもいろいろある。
マイミストは体を動かすという点ではダンスやバレエなど身体表現として括ることができるが、観察と再現という点から考えれば「体で描く画家」という表現もできる。
何はともあれ、表現に限らず生活・人間関係・労働、その他全てに良いmineを。
五木寛之 『人間の関係』
この頃のこと
気づいたときには、桜は既に散りかけていた。
本当に慌ただしく、しかしぼんやりと日々は流れていった。
昨今の騒々しい日々によって視野狭窄になり、足元を照らすことに精一杯になってしまったのだと、ようやく自分を客観視することができた。ここ最近考えることは、減っていく自宅のトイレットペーパーとのチキンレースやスーパーのレジの混雑、街ゆく人々の顔が日増しに険しくなることばかりだった。
普段決して混ざり合うことのない人々が、同じ一つの事象を考えているということが不思議に思えてならない。人間というものが窮地に立たされたとき、頭を占めることは皆さほど変わらないのだ。
どんなことも活用し消費してやろうという現代人のアグレッシヴなパワーは、今回も通用するのだろうか。
もしそれが人間より強く、人間に勝つだけのパワーがあったなら、地球のパワーバランスが変わる、それだけの話なのかもしれない。自分たちが強者であることに慣れ続けた結果、人間が忘れてしまったことは数多ある。
支配とは人間の欲望だ。その価値観で言えば「力」がモノを言う。
私たちは今、病を制圧しようとしている。ワクチンの開発に取り組み、街を消毒する。少しずつ免疫をつけ、スーパーラットやピレスロイドに耐性を持つゴキブリのように、より強靭な肉体を手に入れようとしている。
力は最も強いものに支配権を与え、絶えず力によってその奪い合いが起こる。それは人間に限らず、生物の全てが参加する競争だ。
人間が地球の圧倒的な覇者として君臨し続ける限り、全ての挑戦者は更なるエネルギーを放出し、強い反発をする。だから時代が進めば進むほど、人類の課題が分野を問わず、より困難で複雑怪奇なものに変容していくのは必然だ。
戦うことの善悪は抜きにして、生き抜くために何をするか、何ができるか。
事態の収拾を図れるのは当然、専門家のみだ。もちろん、非専門家も含め、全ての人の協力が必要不可欠で、専門家をアシストしなくてはならない。
ダイレクトな貢献をする専門家と、それを支え、インダイレクトな貢献をする非専門家の存在がある。
今、非専門家である私にできることは矮小だ。有用なことは何一つ言えない。
せめて医療従事者・スーパーの店員さん・宅配のお兄さん・行政に携わる人々、そういった功労者にやさしくすること、なるべく協力すること。
その上で悲観し過ぎず、慌てず、周りを勇気づけつつ、草木のような平常心で漂う。
そうやって日々を暮らしていこう。
「おめでとう」
最近は、小冊子を作っていた。内容はエッセイや詩、書、小説などもろもろの文章をごちゃまぜにしたマガジンのようなもの。文章を書いて、IllustratorやInDesignを用いてレイアウトを組んで、印刷業者に持ち込んだ。
今日、新年会も兼ねて、刊行記念のお祝いをしてもらった。
この得体の知れない、まだどこにも流通できない冊子に対して、笑顔の「おめでとう」があった。それは、私の存在に対しての「おめでとう」と同義だった。
とても嬉しかった。
ふと最近見返した、エヴァの最終回を思い出した。シンジくんを囲み、「おめでとう」と拍手する人々。昔は不明瞭だった気持ちが少しわかった。そこには、存在の承認、そしてアイデンティティの確立があった。
とにかく抽象的な「おめでとう」を手に入れられて、大きな物事を成功させたときは違う種類の、清々しい何かが得られたのだけど、これが偽善でなく嘘偽りない本当の気持ちだと、なんて言えば信じてもらえるのだろう。