この頃のこと
気づいたときには、桜は既に散りかけていた。
本当に慌ただしく、しかしぼんやりと日々は流れていった。
昨今の騒々しい日々によって視野狭窄になり、足元を照らすことに精一杯になってしまったのだと、ようやく自分を客観視することができた。ここ最近考えることは、減っていく自宅のトイレットペーパーとのチキンレースやスーパーのレジの混雑、街ゆく人々の顔が日増しに険しくなることばかりだった。
普段決して混ざり合うことのない人々が、同じ一つの事象を考えているということが不思議に思えてならない。人間というものが窮地に立たされたとき、頭を占めることは皆さほど変わらないのだ。
どんなことも活用し消費してやろうという現代人のアグレッシヴなパワーは、今回も通用するのだろうか。
もしそれが人間より強く、人間に勝つだけのパワーがあったなら、地球のパワーバランスが変わる、それだけの話なのかもしれない。自分たちが強者であることに慣れ続けた結果、人間が忘れてしまったことは数多ある。
支配とは人間の欲望だ。その価値観で言えば「力」がモノを言う。
私たちは今、病を制圧しようとしている。ワクチンの開発に取り組み、街を消毒する。少しずつ免疫をつけ、スーパーラットやピレスロイドに耐性を持つゴキブリのように、より強靭な肉体を手に入れようとしている。
力は最も強いものに支配権を与え、絶えず力によってその奪い合いが起こる。それは人間に限らず、生物の全てが参加する競争だ。
人間が地球の圧倒的な覇者として君臨し続ける限り、全ての挑戦者は更なるエネルギーを放出し、強い反発をする。だから時代が進めば進むほど、人類の課題が分野を問わず、より困難で複雑怪奇なものに変容していくのは必然だ。
戦うことの善悪は抜きにして、生き抜くために何をするか、何ができるか。
事態の収拾を図れるのは当然、専門家のみだ。もちろん、非専門家も含め、全ての人の協力が必要不可欠で、専門家をアシストしなくてはならない。
ダイレクトな貢献をする専門家と、それを支え、インダイレクトな貢献をする非専門家の存在がある。
今、非専門家である私にできることは矮小だ。有用なことは何一つ言えない。
せめて医療従事者・スーパーの店員さん・宅配のお兄さん・行政に携わる人々、そういった功労者にやさしくすること、なるべく協力すること。
その上で悲観し過ぎず、慌てず、周りを勇気づけつつ、草木のような平常心で漂う。
そうやって日々を暮らしていこう。