『ひよっこ』を観て
脚本家、岡田惠和の魅力は、「葉っぱの上のテントウ虫をそうっと虫眼鏡ごしに観察したときに、ゆっくりと、しかし確実に小さな手足で前に進んでいるのを見つけて微笑ましく感じた気持ち」、そのようなものだと思う。
登場人物たちは各々が苦境に立たされながらも、喧噪溢れる日々の中、流されてしまいがちな細やかな感情を丁寧に掬い取り、ささやかな幸せとして大切にしながら生きている。
『ひよっこ』の前半(第1週~14週あたり)も同様に、登場人物たちは他者と己を比較することなく、朗らかに日々を送っている。
主人公のみね子は貧しい農家の生まれながらも、家業である畑仕事の手伝いに喜びを見出しているし、無理して高校に通わせてくれた父に感謝をしている。
鑑賞者は岡田惠和が手にしている虫眼鏡の脇から、朝露と同じような儚さの生き物たちを、そうっと見つめていたいのだ。
私たちの身辺には、日々、諸々の娯楽が手の届くところに溢れかえり、クラブ・ショー・モールetc……煌びやかな祭りがそこら中でギラギラしている。
365日がハレの日となった私たちに、ささやかな日常の幸せを喜ぶ心はもはや残されていない。
だからこそ、フィクション上のみね子を望み、そこから目が離せなかった。
最後の1か月に放送さえたストーリーは、夢を叶えたり、結婚をしたりと、登場人物たちそれぞれが、現代の鑑賞者から見ても幸福と感じられる大団円へと進んでいった。
登場人物たちが幸せになるのは良いが、皆の幸せという形が社会的にも喜ばしい成功へと変わってきた。
たとえばみね子の親友の時子は、女優になった。
しかし、安直に女優にさせない方が、(もしくは女優になったとしても、その内側を細やかに描くことで)岡田惠和の筆風を生かした幸せを描けた気がする。
幸福の到達点が自分軸から社会軸に移り変わってしまったことで、後半のストーリーが失速したように思う。
物語も、人間も、第一印象が要だとは言うけれども、同じくらいラストも重要であって、
その人にしか書けない世界が構築されていればされている箇所ほど、この作品に夢中になって観ていた。