ご挨拶
人と仲良くなるにはじっくりと時間をかけねば……と普遍的なことを改めて思うのだけど、その言葉の真意は挨拶に割く時間が増え続けていることにある。
昔、それもひと昔前と比べてさえも、一人の人間が一生に出会う人の数は格段に増えている。しかし増えたのは親しい友ではなく、「互いに表層的かつポジティブであることで関係を保っている知人」とでも言うべきか。
これらの関係で用いられるのは表層語、たとえば挨拶だ。
挨拶がそれ自体のために存在しなくなったのは一体いつからなんだろう。挨拶の機能が純粋なその場の感情の発露や礼節の表れでなくなったのは一体どうしてなんだろう。
意図的な思惑の下、挨拶を戦略として活用する行為、外交やビジネスなどに用いられるそれは心情的に受け入れがたくも何かを成すための尊い行為でもあるのだろう。また大して目論見がなかろうとも、関係を円滑にするために自然と行う挨拶、それもまた何かを守るために必要なものだ。
しかし、気になるのは挨拶が極めて個人的な欲望に利用されている場合だ。
自分のためだけの挨拶は自分しか救わない。もっと言えば本当の自分は救ってくれない。なぜなら挨拶は表層的にしか人間関係を結んでくれないからだ。
他人を傷つけないことはそれゆえに深くない。だからと言ってそれを言質に大した思想なく人を傷つけ、人間関係を築いていると誤解するのも、誤った挨拶であると思う。
最近は挨拶に手間暇をかけるより、能力や技術、感性を磨くことに時間をかけている。
研鑽、研鑽、ちょっとサボってまた研鑽し続けて、なんて自分で言って耳が痛い、首を絞めている。
その過程でゆっくりじっくり程よい距離で仲良くなれそうな人がいたら関係を築けばいいと思っている。
礼節は守るし、直接会ったときはきちんとでもやりすぎずに挨拶する。だから必要以上に愛想をよくしたりはしない。それじゃダメなのか。
焦るな、時間をかけろ。って毎日毎日自分に言い聞かせている。