被害者意識に塗れていてごめんねごめんね
犬のように吠え、猿のように鳴いています。野蛮人と呼ばれ、コンクリートジャングルで捕獲も駆除もされず、鳩のように餌を与えても貰えず、誰かの家の中にこっそり侵入すると新聞紙で叩かれ、という被害者意識に塗れてると言われそうな気分でいます。今日も醜くテカってる。美しくないのに変に目立ってるのかも。他の人のことなんて、そこまで見てないか。
人のように黙って祈ることができず、欲は無いのに、イツモ怒ッテルナウ。静まれ、落ち着け、とにかく冷静になれ、人を不快にさせるな。
周りに不機嫌な顔して疲弊させてしまうなら、まだ好かれたいがためにニコニコしてた方がいい。それはツマラナイカラ、ヤメロとは口が裂けても口がさけるチーズになっても言えない。はい、チーズ。笑って笑って。
オンナノコの宝箱的な散文風にごまかしても、フォトショの加工はバレてるし、元は泥だんごだって見抜いてる人もいる。やめて、麺とヘラを送りつけないで。なんてわかりやすい。麺は食べるよ、オンナノコ、メン好き。面!面!面!取ってください!撮ってください!
今だ!!!
とりあえず壮大な草原を思い浮かべるから、準備はいい?みんな一緒に、はい、チーズケーキ、ミックスベリーとマシュマロ添え♡!!!
パシャパシャパシャパシャ!!!!!!
気の強い
小学校の頃か中学校の頃か、保護者同士の集団で喋る様子を見て、とあることに気づき、愕然としたことがある。
幾つになっても、気の強い者が勝つということだ。(例外も多々あり)
保護者の集まるその場を仕切り、PTAの中でもグイグイ意見を放つマダムは、かなり気の強い女子の母親だった。
今度ここにランチ行きましょうよ!バザーは持ち寄りね!!私は会計の係をやるわ!!
ガンガン決められてゆく。
助かる面も大きい。特にPTA の役員をやりたがらない保護者も多いので猶更。
教師も感謝している。役員はそのまま引き受けて貰いたいので、多少強引なやり方でも下手に口出ししない。ただ、役員の子どもにも口出しをしづらくならなければいいとは思う。
気の強さは技術でもないのに武器になる。
ジャイアン的ではない強さだ。
特に女子のヒエラルキーはかわいさだけじゃ上に昇れないことだってある。腕力よりも、気の強さが必要なのかもしれない。最強コンボは、「かわいい×気の強い」なんじゃないかと思う。
気の強いことは必ずしも悪いことではないと思う。
けれども、気の強いことに対して味覚音痴になってはいけないのではないか。
気の強い女性肯定派否定派にかかわらず、どちらも「気の強い」「気の弱い(か弱い)」ということをフェチズムとして、好みの方をそのまま受容してしまっている気がする。
それでは、たとえば気の強い女性の中でも、芯の通った気の強さなのか、自分に従わせたいという気の強さなのか、判別がつかないと思う。
承認欲求高め
認められればなんでもいいってわけじゃない。大勢に認められても仲のよい人に認められても必ずしも満足するとは限らない。
正しく褒めて欲しい。わがままを言うと、力の入れているところを正しく褒めて欲しい。自分の心のお気に入りをくすぐられたい。
でも正しくけなしてくれても同じくらい嬉しい。
正しいっていうのは、人それぞれでよくて。でもどんな正しさの中にも、相手がどんな考えでそこに至ったかを察するということが含まれていて欲しい。それはつまり、自分の正しさを断定し切らないということでもある。特に作品の評価は推測の上に始まるものなのだから。
純文学の新人賞の批評は、よく作家によって評価の差が激しいことがある。それは、純文学というものの性質が己の心の開示であるからである。だから著者という1人の人間が自分にとって好みかそうでもないか大嫌いかが、評価に関わることだだってある。
でもそれを乗り越えて批評していることだって一杯ある。新しい文学を書こうともがこうとした、つまりは文学というものの在り方を新しく提示しようとしたということを評価したり、何を書きたいのか汲み取り、その表現の巧みさに感銘したり。
さまざまな方向から批評し、1番伝えたかったことをドーンと書いたのが、あの純文学の短い書評なのだ。
だからこそ肯定も批判も同じくらい尊い。特に批判は大勢のファンを持つ作家が、自分の人気の落ちることも承知で放つ。もちろん、それも正しいけなし方が前提だけど。
友達コレクションに抗おうの巻
必要なものを必要なだけ持つ時代。
もちろん、そんな時代に抗ってもいいし、それはむしろ時代に流されるより労力を費やすので、尊いことだと言われがち。けれども、目立ちたいからってなんでもかんでも抗う天邪鬼ではなく、意志のもと抗いたい。そして自分がそんな天邪鬼に食いついてしまうことのないようにしたい。逆に、意志と時代が合致していれば、それは時代に流されているのではなく、時代に乗っていると言える。そんなときは自信を持って時代を進んでゆきたい。
友達、それは多くの人に「宝」だと認識されている。宝はたくさん所有していた方が気分がいい。実用的なことにも使えるかも。眺めていても楽しい。
だから、友達という宝物のコレクターは多い。自分じゃコレクターだと気付いていないのかもしれない。コレクター同士には、なんとなく共通する価値観があるように思える。友達の希少価値というか、トレーディングカードの☆の数によるランク付けみたいな。そのランクが自分の基準によってつけられているものなら、いいと思う。でも、それは他の人に評価してもらいやすいように、ランクをすり寄せている場合も多いように見受けられる。それは巷でよく言われる、アクセサリー的存在の恋人に近いのかもしれない。自慢できるものを持つ。
個人的に一番気になるのは、ブランドと化してしまったものこそ外的な評価ばかりに偏るということだ。知れ渡ってしまったブランド力という外の部分にばかり視線が集中し、その中身が見えてこない。簡単な例でいえば、「医者の恋人がいる」と言えば、「お金に困らなさそう、いいなぁ」と言うような。人の中身っていう不明慮でアヤフヤなものはゴマカシが効くことも多いし、まずランクとして判断されない。とうか、中身なんか似たり寄ったりって思っている人も多いし、中身を磨くことに時間を使う人だってそう多くはない。そもそも中身を磨くって何?言葉にすると胡散臭くもある。中身すらも多くの人に認められそうな(例、女は愛嬌)みたいな方向に持っていこうとするんだから。
決して人の中身が外身より尊いとは思っていないけど。
友達コレクションて何?
確かに人脈はあった方がいい。でも、それにプライヴェートな香りをまとわせるのは、友達と人脈のいいとこどりというか。アイテムである友達として重宝されてしまうのか功利的で。だからって世捨て人ばっかり友人として囲う人もいるけど、それもまた主張のために友達を利用しているって意味では、友達=駒であるし、友達コレクションなんだと思う。
ハイテンションモード
たまに馬力をかけると止まらなくなる。そういうときは動作だけじゃなくて、口数も機関銃の如く増えるから、やかまし過ぎて、ドン引きされて友達が減りそうになる。
しかもそういう日はギリギリの状況だから、ドスッピンに度の強い眼鏡で、徹夜明けのベタついた髪で、外側からだってドンドンドン引きされる。
しかし、そういう日に目的を達成できると、めっさ!嬉しい!ので、感情も馬力が止まらず、HiHihighテンションのまま、興奮して、そのまま周りに心をぶつけて、更に気持ち悪がられる。
でも、そんな日こそ、魂は踊っていて、芯から輝いているので、「君のハートに惚れてるんだぜベイベー」って方は、ぜひハイテンションモードの日にお声掛けいただきたい。
ドスッピンにビン底眼鏡、ベタついた髪の、女子力スカウターマイナス5,000の者が対応致します。逃げないで、逃げないで。今日の私の瞳を見て。いつもの厚化粧より素敵でしょう?私の内面が好きなのでしょう?ねぇ?ねぇ?
もう若さじゃ押し切れない
若さは万人に与えられた強力なアイテム。若さは多少の無理を自分にも他人にも通す。若さは現象としてあるだけなのに、ふと自分の一部かのように思えてしまうこともある。そして若さを失ったとき、自分の欠片も失ってしまったように思う。
自分が若さで乗り切れていたのは、自分の力だけじゃなくて若さの勢いもあったからなのかもしれない。
だから人間から若さを引くと本当の人間が見えてくると思う。若さ以外、なんの力で物事を乗り切っているのか見てみたい。
読解力と読解力発信力
博物館も美術館も、読解電波が飛び交ってる。
作品を観るための意気込みは、作品の枠組みを超え、羽を生やして飛んで行く。
違う生き物になった読解は、もう作品とは別物。
読解力を発信する力は、読解力の大きさとイコールじゃない。
読解力を発信する力は、読解の発信力ともイコールじゃない。
飛び交ってる読解は、必ずしも良質なものとは限らなくて、ただ強い品種なだけなのかもしれない。
読解を発信している生産者は、読解力より読解力の発信力に優れているのかも。
教訓じゃないけど、目につくものばかり買ってると、凄いけど発信の苦手なものが消えてくのかも。