近場で済まそう?
時間がないときはコンビニでご飯。全然アリ。女王アリ。
栄養が偏りそうだったら、後で補填すればいい。あんまりにも偏食が続くと、体調に響くかもしれないから、ほどほどに。自分の体のことだから、自分で責任取る。もちろん周りに迷惑かけ過ぎないように、バランスをとりながら。
近場でパパッと済ませてよいもの、よくないものがあると思う。
よいものは、ご飯みたいに自分の生活に関すること。
よくないものは、人間。
ただ近くにいるから、手に届く範囲にいるからという理由で隣に座るのは、優しいようで都合がいいだけ。
おいしい店にはわざわざ交通費や並ぶ時間をかけるというのに、どうして自分が素敵だと思う人に出会う手間を惜しむんだろう。
私は自分の心と繋がったりぶつかったりできる人が素敵だと思う。そんな人に会うためなら、野宿しながら雑草をかじりながらも、喜んで遠征したいなと思う。
もちろん隣人を大事にするのも素晴らしいこと。でも、自分がその隣人ならば、隣人として大事にされている理由が知りたい。私じゃなくてはならないとまでは行かなくても、私のような人でなくてはならなかった理由が知りたい。
「理由を求めるなんて野暮だ」とは逃げないで欲しい。理由がないなら、無いと言えばいい。理由がないから悪いなんてことはなくて、ただ私が理由を聞きたい人間だというだけなんだから。
ただ、本当は理由のないものに、無理して建て前を貼り付けているのを見ると、我慢ならない。
「この人を人として評価しているんだ」と看板を掲げるなら、その理由を求めざるを得ない。完全でなくてもいい、ほんの切れ端でもいいから、理由を言葉にしようという思いを伝えて欲しい。
それがコンビニ人間にならないコツじゃないかと思う。(今から読みます)
正当にバカにするということ
私は自分がバカにされても仕方のない部分を持ち合わせていると思っているので、その点を正当にバカにされるのは納得しています。「バカ」という言葉はキツく受け取られてしまうかもしれません。要は人間誰しも、他人に指摘され得る部分があるということです。
ただ、その「正当」というのがミソであって、
「正当にバカにする」とは、必要な箇所だけに焦点を当ててバカにすることだと思います。つまり、一人の人間を全てひっくるめてバカにしてはならないということです。
そんなの当たり前だと感じるかもしれませんが、一度バカにしてしまった人に対しては、全ての行為において見下しがちになってしまうのではないでしょうか?少なくとも、私はそんな経験があります。
確かに、明確に得意分野が違う人同士は、お互いをバカにせず、認め合えることもあると思います。たとえば、体力に関しては剛健なAさんが病弱なBさんから尊敬されていますが、反対に料理に対してはプロ並みの腕前のBさんが味音痴を自他ともに認めているAさんに尊敬されるというように。(お互い自分の得意分野が最も尊いと考え、相手の得意分野に目もくれないということももちろんあるでしょうが。)
ですが、バカにする対象が「精神性」になってくると、その対象となる人の人間そのものを見下してしまいがちなのではないでしょうか?
特に精神において最重要視することって個人によってマチマチで許されているので、自分の中で最も秀でている「精神性」を自分の最重要精神だと主張できてしまいます。その主張は日頃の信念の賜物、つまり本心なのかもしれないし、偶然生まれた結果を見て後から根拠をこじつけただけなのかもしれません。
だから、個人によって順位の付け方が異なる「精神性」は、一度自分の尺度で相手をバカにしてしまうと、その構図が覆されにくいのだと思います。体力や料理などの技術はどちらが上級者か比較的わかりやすいようにできていますが、「精神性」は共通理解のしにくいものなので尚更です。
自分の考える最重要の「精神性」を信じること自体は立派なことだと思います。人生、己の信じる道へ突き進むしかないのだし、信念自体は尊いものです。
ですが、みんな違う心を持つからこそ、相手が「精神性」のどこに重きを置いているのか理解し、また理解できなくても理解しようという姿勢を持つことが必要になってくるのだと思います。そうしないと、自分以外の人間を否定しなくてはならなくなってしまうし、否定するにもズレた否定になってしまうので。
ですから、もし誰かの心の在り方をバカにするなら、対象となる人の精神のどこがどのようにバカだと感じたのか、しっかりと切り抜いておかなくてはならないと思います。
そしてその切り抜いた箇所以外の精神や技術をバカにすることのないように、努めなくてはならないと思うのです。
自分の醜い心
人間だもの、苦しい気分になることだってある。でも、「辛いんだ」と口にすると「みんな辛いんだよ」と言われるし、確かに私の愚痴なんか聞きたくないよなあと思うので、辛くないような表情をする。けれどもどうしても完全には隠しきれないし、わずかながら誰かに気づいて欲しいという甘えもあるので、ツンデレみたいな態度を取ってしまう。「あーステレオタイプ、嫌になる」と思いきや、ステレオタイプ過ぎて逆に誰もいない、大丈夫。そう、漫画に出てくるガリ勉キャラが現実に稀有なように。
こうやって感情吐露系を気取ると、自分自身を見世物にして売ってしまったような気分になる。けれどもバカだから、そうやって醜い芸をして人に情を請うしかなくて。もっと高尚なことが言える頭や豊富な知識があったりしたら、ありがたがって頭下げながら、物品を奉納してもらえるだろうけど、私にはそれができない。でも開き直るのもよくない。磨こう、磨こう。
今日も私の心は醜いなあと思いつつ、心を写す鏡を見つめているけど、
「私の心は醜い」と宣言することで、相手に自分のコンプレックスを指摘させないようにあらかじめ発信してしまうという手法を用いているわけで。
だから、そういう予防線を張るのも、また私の醜さの1つ。自分の醜さを自分の手で生んでる、増やしてる。
そして自分の心を醜いと思ってるくせに、さらけ出す。その目的は予防線を張りたいだけじゃない。
とは言っても、優しい声かけや共感を求めているわけではなく、こんなことを考えている私を見て、そして何かを感じて投げ返して欲しいということ。承認欲求ではないと思うのだけど、それが何なのか、うまくピタリと言葉にならない。
玉手箱を開けたい。
小学1年生のとき、1マスがチロルチョコサイズの大きなノートで、文字を勉強していました。
ジャポニカ学習帳でしたっけ?パンダとかコアラとかの写真が表紙で、表紙裏にいろんな科目の名前のシールがついていて。よく「せいかつ」と「さんすう」のシールを切り貼りして、「いかさん」というシールを作って遊んでいました。
というノートの話は、まぁいいとして、
文字を大きく書かせるのは、「粗がよく見えるようにである」と聞いたことがあります。どこを改善すればいいかを指導しやすくするそうです。
つまり、「下手に見えるように書く」。これが意識の上でも、上達の鍵だそうです。
粗が見えると恥ずかしいけれども、小さく書いてごまかしたいのをぐっと堪えて大きく大きく書きます。そして赤字で修正されるのです。
そういえば、小中の教師の採点のマルバツの文字って、結構強烈な印象があります。
赤いマジックで勢いよく記されたバツは、なんだか「ダメ!ダメ!ダメー!!!」と言われているようで、苦しくなりました。
だから、以前採点のバイトをしたときは、極力優しいバツになるように心がけました。いいのか?悪いのか?わかりませんけど。
最近は人に怒られる機会が少ないです。
それは多分、怒られに行く機会が少ないからだとも思うのです。
失敗が許されない世の中になってきたので、不得意なことをやらない、堅実な人が増えてきたのかと。
それもまたよくて、正解で。
でもたまには玉手箱、開けたいです。
「ああ、煙モクモクで、老けちゃうだろうなー。老けちゃうだろうなー。」
わかっていても、失敗してみたいのです。
玉手箱は失敗した先に、教訓以外は何もないですけど。もちろん教訓は大切ですけど。
玉手箱はともかく、
何事も練習中は、下手でも大きく書くことを心がけたいです。
ごまかしのきかない、それは純白の如く。
白いシャツに染みひとつ。
ああ、目立つ!目立つんじゃい!!
白ってごまかしが利きませんよね。
汚れたら目立ってしょうがないし、写真なんかも一面の白を背景にすると、自分が曝け出されてしまったかのような気分に陥る。
だからこそ、白は魅力的です。
ごまかしたくない今日の私は白を選ぼう。
白米、素材そのままの味を楽しもう。ああ、白米の味。嫌いじゃないけど、せめて醤油が欲しい。やっぱり白だけはキツイ。
私にはちょっと汚れてるくらいがちょうどいいんだ。切り替え早い。切り替え大事。でも人間、無菌状態では逆に生きていけないって言うし。
けれども、人間、白、大好き。白、保ちたがる。白、演出したがる。
灰色に演出したっていいじゃない。
でも白は人気ある。私も白に憧れる。白、白、白。
ごまかしは必要。でも本当はごまかしたくない。だから白っぽく粉を叩く。剥がれてもいいように、粉を叩く。うどんは全てが白いというのに。
海に出たい
楽しく生きたい、おもしろく生きたい。
それだけなのに、毎日泡のような楽しみに溺れてる感覚になる。
おいしいものを食べても、綺麗な服を買ってきても、その場しのぎな感じが拭えない。
たとえるなら、大して仲良くもない元同級生のSNSを長時間徘徊した後、みたいな。有意義な時間の使い方なんかわからない。
大人になれば変わるのか?と思っていた。本当は思っていなかったけど、思い込みたかった。
大人の楽しみ方は、おもしろいが広い。笑いでなくてもおもしろく感じなくてはならない。趣深いみたいな。人間としての深みがおもしろい、みたいな。
ゆとりだからわからない。ゆとりだから、ビールの苦味を美味しく感じられない。ゆとりのせいにした。ゆとりは何も悪くないのに。
結局、私みたいな頭のよくない人間は、水族館の中で餌のために芸をするアシカであるのが、一番まともな生き方なのかなとも思う。
私の親だって、私に懸命に芸を覚えさせようとする。親も水族館で生きることしか知らないし、それが最も確実な方法だから。水族館から出たって、すぐに干上がっちゃうかもしれないし。我が子のためを思っての発言。
でも、リスクを背負って一度、抜け出さないことには、新しい楽しみは多分見つからない。
水族館の人気者になって満足していたら、もし水族館が潰れたら、一発で私も死ぬ。水族館の閉館は当分、無さそうだけど。
それでも海に出たい。
音姫使えない系女子
「女子」のみなさん、音姫、使ってますか?
音姫とは、さざ波の音や野鳥の鳴き声の音を流し、いわゆるジョボボボ音をかき消すための機械です。
音姫は、音を消すために水を流すと勿体ないという声を反映させた、エコロジーに配慮した現代的な機械です。
確かに、静まり返るトイレでジョボボボ音が響き、それが誰かに聞かれたら恥ずかしい人もいますよね。
人間て基本、声以外の体から発せられる音は、恥ずかしいと感じるようになってるんですかね?オナラしかり、ゲップしかり、お腹の音しかり。
考えたんですけど、体から発せられる音が恥ずかしいのって、自分の体調を知られちゃうのが人間の本能としてマズイと判断されるからなんじゃないでしょうか?
体調不良のわかる音(例:お腹が急降下でギュルギュル)などが周りに知れ渡ると、「今ならアイツをやっつけられるチャンス」だって、バレちゃうからじゃないでしょうか?
でも、そうなら「快調ですー♪」って感じの消化音を発したとき、もっと自信持って鼻高々でいいはずだし、古来から本能としてだと仮定しても原始人が体から発せられる音に恥じらってたとは考えにくいし、原始人が恥じらうイメージがそもそもない。
恥って文明社会独特のものなんですかね?恥って捨てられるんですかね?
音姫の話に戻りますが、
しかし、その音姫を流すのすら、なんだか恥ずかしいと思ってしまうんです。
決して、音姫を使っている人を見て恥ずかしいと思っているわけではなく、自分が使うのが恥ずかしいという話です。
なぜなら、音姫のザザザザもしくはカッコーカッコーなどという音が流れたとき、トイレ待ちをしている人や鏡の前で化粧を直している人に「あの人、音姫使ってるよ〜」って知らしめてしまいますし、個室を出てからも、「あの人、音姫使ってたなー」って思われてるんじゃないかって思うと、なんだか恥ずかしくて。
私の音なんか、誰も聞きたくないけど、
私の音なんか、誰も聞いてないのに、
自意識過剰で音姫流したんじゃないかって思えてきて。
「それはマナーだよ」と言われれば、それまでですが、マナーというのは本来気配り。
私は音姫に関しては、人一倍「申し訳ないなあ」という思いを持っていて、どんな風に振舞おうとその気持ちは変わることのないものなので、
気持ちさえあれば音姫を流そうと流すまいと、マナーにのっとっている気もします。
ですが、いくら気持ちがあっても、たとえば、くちゃくちゃ食べる人を生理的に受け付けない人もいますし、やっぱり本能的に嫌悪感を抱かせる(と多くの人が考えている)マナーは遵守せねばならぬのでしょうかね。
ですが、ですが、
音姫の使用は発する側の恥じらいを解消するためにあり、音を聞きたくないという声を解消するためのマナーではないですよね。くちゃくちゃ食べるのとは違う。
私は音姫を使えない私を認めてもいいのでしょうか。もしみんな私の音を気にしていないのなら。
決して下ネタに逃げた訳ではありませんよ。