フテブテの歩み

文筆/脚本/シナリオ/演劇///ハンドメイド/タロット​ ◆表現ユニット燃ゆる塵芥主宰 HP→https://yukifutebute.wixsite.com/yuki-fute-bute

友達コレクションに抗おうの巻

必要なものを必要なだけ持つ時代。

もちろん、そんな時代に抗ってもいいし、それはむしろ時代に流されるより労力を費やすので、尊いことだと言われがち。けれども、目立ちたいからってなんでもかんでも抗う天邪鬼ではなく、意志のもと抗いたい。そして自分がそんな天邪鬼に食いついてしまうことのないようにしたい。逆に、意志と時代が合致していれば、それは時代に流されているのではなく、時代に乗っていると言える。そんなときは自信を持って時代を進んでゆきたい。

 

友達、それは多くの人に「宝」だと認識されている。宝はたくさん所有していた方が気分がいい。実用的なことにも使えるかも。眺めていても楽しい。

だから、友達という宝物のコレクターは多い。自分じゃコレクターだと気付いていないのかもしれない。コレクター同士には、なんとなく共通する価値観があるように思える。友達の希少価値というか、トレーディングカードの☆の数によるランク付けみたいな。そのランクが自分の基準によってつけられているものなら、いいと思う。でも、それは他の人に評価してもらいやすいように、ランクをすり寄せている場合も多いように見受けられる。それは巷でよく言われる、アクセサリー的存在の恋人に近いのかもしれない。自慢できるものを持つ。

 

個人的に一番気になるのは、ブランドと化してしまったものこそ外的な評価ばかりに偏るということだ。知れ渡ってしまったブランド力という外の部分にばかり視線が集中し、その中身が見えてこない。簡単な例でいえば、「医者の恋人がいる」と言えば、「お金に困らなさそう、いいなぁ」と言うような。人の中身っていう不明慮でアヤフヤなものはゴマカシが効くことも多いし、まずランクとして判断されない。とうか、中身なんか似たり寄ったりって思っている人も多いし、中身を磨くことに時間を使う人だってそう多くはない。そもそも中身を磨くって何?言葉にすると胡散臭くもある。中身すらも多くの人に認められそうな(例、女は愛嬌)みたいな方向に持っていこうとするんだから。

決して人の中身が外身より尊いとは思っていないけど。

 

友達コレクションて何?

確かに人脈はあった方がいい。でも、それにプライヴェートな香りをまとわせるのは、友達と人脈のいいとこどりというか。アイテムである友達として重宝されてしまうのか功利的で。だからって世捨て人ばっかり友人として囲う人もいるけど、それもまた主張のために友達を利用しているって意味では、友達=駒であるし、友達コレクションなんだと思う。

ハイテンションモード

たまに馬力をかけると止まらなくなる。そういうときは動作だけじゃなくて、口数も機関銃の如く増えるから、やかまし過ぎて、ドン引きされて友達が減りそうになる。

しかもそういう日はギリギリの状況だから、ドスッピンに度の強い眼鏡で、徹夜明けのベタついた髪で、外側からだってドンドンドン引きされる。

しかし、そういう日に目的を達成できると、めっさ!嬉しい!ので、感情も馬力が止まらず、HiHihighテンションのまま、興奮して、そのまま周りに心をぶつけて、更に気持ち悪がられる。

でも、そんな日こそ、魂は踊っていて、芯から輝いているので、「君のハートに惚れてるんだぜベイベー」って方は、ぜひハイテンションモードの日にお声掛けいただきたい。

ドスッピンにビン底眼鏡、ベタついた髪の、女子力スカウターマイナス5,000の者が対応致します。逃げないで、逃げないで。今日の私の瞳を見て。いつもの厚化粧より素敵でしょう?私の内面が好きなのでしょう?ねぇ?ねぇ?

 

もう若さじゃ押し切れない

若さは万人に与えられた強力なアイテム。若さは多少の無理を自分にも他人にも通す。若さは現象としてあるだけなのに、ふと自分の一部かのように思えてしまうこともある。そして若さを失ったとき、自分の欠片も失ってしまったように思う。

 

自分が若さで乗り切れていたのは、自分の力だけじゃなくて若さの勢いもあったからなのかもしれない。

だから人間から若さを引くと本当の人間が見えてくると思う。若さ以外、なんの力で物事を乗り切っているのか見てみたい。

読解力と読解力発信力

博物館も美術館も、読解電波が飛び交ってる。

 

作品を観るための意気込みは、作品の枠組みを超え、羽を生やして飛んで行く。

 違う生き物になった読解は、もう作品とは別物。

 

 

読解力を発信する力は、読解力の大きさとイコールじゃない。

読解力を発信する力は、読解の発信力ともイコールじゃない。

 

飛び交ってる読解は、必ずしも良質なものとは限らなくて、ただ強い品種なだけなのかもしれない。

読解を発信している生産者は、読解力より読解力の発信力に優れているのかも。

 

教訓じゃないけど、目につくものばかり買ってると、凄いけど発信の苦手なものが消えてくのかも。

近場で済まそう?

時間がないときはコンビニでご飯。全然アリ。女王アリ。

栄養が偏りそうだったら、後で補填すればいい。あんまりにも偏食が続くと、体調に響くかもしれないから、ほどほどに。自分の体のことだから、自分で責任取る。もちろん周りに迷惑かけ過ぎないように、バランスをとりながら。

 

近場でパパッと済ませてよいもの、よくないものがあると思う。

よいものは、ご飯みたいに自分の生活に関すること。

よくないものは、人間。

 

ただ近くにいるから、手に届く範囲にいるからという理由で隣に座るのは、優しいようで都合がいいだけ。

おいしい店にはわざわざ交通費や並ぶ時間をかけるというのに、どうして自分が素敵だと思う人に出会う手間を惜しむんだろう。

私は自分の心と繋がったりぶつかったりできる人が素敵だと思う。そんな人に会うためなら、野宿しながら雑草をかじりながらも、喜んで遠征したいなと思う。

 

もちろん隣人を大事にするのも素晴らしいこと。でも、自分がその隣人ならば、隣人として大事にされている理由が知りたい。私じゃなくてはならないとまでは行かなくても、私のような人でなくてはならなかった理由が知りたい。

「理由を求めるなんて野暮だ」とは逃げないで欲しい。理由がないなら、無いと言えばいい。理由がないから悪いなんてことはなくて、ただ私が理由を聞きたい人間だというだけなんだから。

 

ただ、本当は理由のないものに、無理して建て前を貼り付けているのを見ると、我慢ならない。

「この人を人として評価しているんだ」と看板を掲げるなら、その理由を求めざるを得ない。完全でなくてもいい、ほんの切れ端でもいいから、理由を言葉にしようという思いを伝えて欲しい。

それがコンビニ人間にならないコツじゃないかと思う。(今から読みます)

正当にバカにするということ

私は自分がバカにされても仕方のない部分を持ち合わせていると思っているので、その点を正当にバカにされるのは納得しています。「バカ」という言葉はキツく受け取られてしまうかもしれません。要は人間誰しも、他人に指摘され得る部分があるということです。

 

ただ、その「正当」というのがミソであって、

「正当にバカにする」とは、必要な箇所だけに焦点を当ててバカにすることだと思います。つまり、一人の人間を全てひっくるめてバカにしてはならないということです。

そんなの当たり前だと感じるかもしれませんが、一度バカにしてしまった人に対しては、全ての行為において見下しがちになってしまうのではないでしょうか?少なくとも、私はそんな経験があります。

 

確かに、明確に得意分野が違う人同士は、お互いをバカにせず、認め合えることもあると思います。たとえば、体力に関しては剛健なAさんが病弱なBさんから尊敬されていますが、反対に料理に対してはプロ並みの腕前のBさんが味音痴を自他ともに認めているAさんに尊敬されるというように。(お互い自分の得意分野が最も尊いと考え、相手の得意分野に目もくれないということももちろんあるでしょうが。)

 

ですが、バカにする対象が「精神性」になってくると、その対象となる人の人間そのものを見下してしまいがちなのではないでしょうか?

特に精神において最重要視することって個人によってマチマチで許されているので、自分の中で最も秀でている「精神性」を自分の最重要精神だと主張できてしまいます。その主張は日頃の信念の賜物、つまり本心なのかもしれないし、偶然生まれた結果を見て後から根拠をこじつけただけなのかもしれません。

 

だから、個人によって順位の付け方が異なる「精神性」は、一度自分の尺度で相手をバカにしてしまうと、その構図が覆されにくいのだと思います。体力や料理などの技術はどちらが上級者か比較的わかりやすいようにできていますが、「精神性」は共通理解のしにくいものなので尚更です。

 

自分の考える最重要の「精神性」を信じること自体は立派なことだと思います。人生、己の信じる道へ突き進むしかないのだし、信念自体は尊いものです。

ですが、みんな違う心を持つからこそ、相手が「精神性」のどこに重きを置いているのか理解し、また理解できなくても理解しようという姿勢を持つことが必要になってくるのだと思います。そうしないと、自分以外の人間を否定しなくてはならなくなってしまうし、否定するにもズレた否定になってしまうので。

 

ですから、もし誰かの心の在り方をバカにするなら、対象となる人の精神のどこがどのようにバカだと感じたのか、しっかりと切り抜いておかなくてはならないと思います。

そしてその切り抜いた箇所以外の精神や技術をバカにすることのないように、努めなくてはならないと思うのです。

自分の醜い心

人間だもの、苦しい気分になることだってある。でも、「辛いんだ」と口にすると「みんな辛いんだよ」と言われるし、確かに私の愚痴なんか聞きたくないよなあと思うので、辛くないような表情をする。けれどもどうしても完全には隠しきれないし、わずかながら誰かに気づいて欲しいという甘えもあるので、ツンデレみたいな態度を取ってしまう。「あーステレオタイプ、嫌になる」と思いきや、ステレオタイプ過ぎて逆に誰もいない、大丈夫。そう、漫画に出てくるガリ勉キャラが現実に稀有なように。

 

こうやって感情吐露系を気取ると、自分自身を見世物にして売ってしまったような気分になる。けれどもバカだから、そうやって醜い芸をして人に情を請うしかなくて。もっと高尚なことが言える頭や豊富な知識があったりしたら、ありがたがって頭下げながら、物品を奉納してもらえるだろうけど、私にはそれができない。でも開き直るのもよくない。磨こう、磨こう。

 

今日も私の心は醜いなあと思いつつ、心を写す鏡を見つめているけど、

「私の心は醜い」と宣言することで、相手に自分のコンプレックスを指摘させないようにあらかじめ発信してしまうという手法を用いているわけで。

だから、そういう予防線を張るのも、また私の醜さの1つ。自分の醜さを自分の手で生んでる、増やしてる。

 

そして自分の心を醜いと思ってるくせに、さらけ出す。その目的は予防線を張りたいだけじゃない。

とは言っても、優しい声かけや共感を求めているわけではなく、こんなことを考えている私を見て、そして何かを感じて投げ返して欲しいということ。承認欲求ではないと思うのだけど、それが何なのか、うまくピタリと言葉にならない。