フテブテの歩み

文筆/脚本/シナリオ/演劇///ハンドメイド/タロット​ ◆表現ユニット燃ゆる塵芥主宰 HP→https://yukifutebute.wixsite.com/yuki-fute-bute

玉手箱を開けたい。

小学1年生のとき、1マスがチロルチョコサイズの大きなノートで、文字を勉強していました。

 

ジャポニカ学習帳でしたっけ?パンダとかコアラとかの写真が表紙で、表紙裏にいろんな科目の名前のシールがついていて。よく「せいかつ」と「さんすう」のシールを切り貼りして、「いかさん」というシールを作って遊んでいました。

 

 というノートの話は、まぁいいとして、

 

文字を大きく書かせるのは、「粗がよく見えるようにである」と聞いたことがあります。どこを改善すればいいかを指導しやすくするそうです。

つまり、「下手に見えるように書く」。これが意識の上でも、上達の鍵だそうです。

 粗が見えると恥ずかしいけれども、小さく書いてごまかしたいのをぐっと堪えて大きく大きく書きます。そして赤字で修正されるのです。

 

そういえば、小中の教師の採点のマルバツの文字って、結構強烈な印象があります。

赤いマジックで勢いよく記されたバツは、なんだか「ダメ!ダメ!ダメー!!!」と言われているようで、苦しくなりました。

 

だから、以前採点のバイトをしたときは、極力優しいバツになるように心がけました。いいのか?悪いのか?わかりませんけど。

 

最近は人に怒られる機会が少ないです。

それは多分、怒られに行く機会が少ないからだとも思うのです。

 

失敗が許されない世の中になってきたので、不得意なことをやらない、堅実な人が増えてきたのかと。

それもまたよくて、正解で。

 

でもたまには玉手箱、開けたいです。

「ああ、煙モクモクで、老けちゃうだろうなー。老けちゃうだろうなー。」

わかっていても、失敗してみたいのです。

玉手箱は失敗した先に、教訓以外は何もないですけど。もちろん教訓は大切ですけど。

 

玉手箱はともかく、

何事も練習中は、下手でも大きく書くことを心がけたいです。

ごまかしのきかない、それは純白の如く。

白いシャツに染みひとつ。

ああ、目立つ!目立つんじゃい!!

 

白ってごまかしが利きませんよね。

汚れたら目立ってしょうがないし、写真なんかも一面の白を背景にすると、自分が曝け出されてしまったかのような気分に陥る。

 

だからこそ、白は魅力的です。

 

ごまかしたくない今日の私は白を選ぼう。

白米、素材そのままの味を楽しもう。ああ、白米の味。嫌いじゃないけど、せめて醤油が欲しい。やっぱり白だけはキツイ。

私にはちょっと汚れてるくらいがちょうどいいんだ。切り替え早い。切り替え大事。でも人間、無菌状態では逆に生きていけないって言うし。

 

けれども、人間、白、大好き。白、保ちたがる。白、演出したがる。

灰色に演出したっていいじゃない。

でも白は人気ある。私も白に憧れる。白、白、白。

ごまかしは必要。でも本当はごまかしたくない。だから白っぽく粉を叩く。剥がれてもいいように、粉を叩く。うどんは全てが白いというのに。

海に出たい

楽しく生きたい、おもしろく生きたい。

 

それだけなのに、毎日泡のような楽しみに溺れてる感覚になる。

おいしいものを食べても、綺麗な服を買ってきても、その場しのぎな感じが拭えない。

たとえるなら、大して仲良くもない元同級生のSNSを長時間徘徊した後、みたいな。有意義な時間の使い方なんかわからない。

 

大人になれば変わるのか?と思っていた。本当は思っていなかったけど、思い込みたかった。

大人の楽しみ方は、おもしろいが広い。笑いでなくてもおもしろく感じなくてはならない。趣深いみたいな。人間としての深みがおもしろい、みたいな。

ゆとりだからわからない。ゆとりだから、ビールの苦味を美味しく感じられない。ゆとりのせいにした。ゆとりは何も悪くないのに。

 

 

結局、私みたいな頭のよくない人間は、水族館の中で餌のために芸をするアシカであるのが、一番まともな生き方なのかなとも思う。

私の親だって、私に懸命に芸を覚えさせようとする。親も水族館で生きることしか知らないし、それが最も確実な方法だから。水族館から出たって、すぐに干上がっちゃうかもしれないし。我が子のためを思っての発言。


でも、リスクを背負って一度、抜け出さないことには、新しい楽しみは多分見つからない。

水族館の人気者になって満足していたら、もし水族館が潰れたら、一発で私も死ぬ。水族館の閉館は当分、無さそうだけど。

それでも海に出たい。

音姫使えない系女子

「女子」のみなさん、音姫、使ってますか?

 

音姫とは、さざ波の音や野鳥の鳴き声の音を流し、いわゆるジョボボボ音をかき消すための機械です。

 

音姫は、音を消すために水を流すと勿体ないという声を反映させた、エコロジーに配慮した現代的な機械です。

 

確かに、静まり返るトイレでジョボボボ音が響き、それが誰かに聞かれたら恥ずかしい人もいますよね。

人間て基本、声以外の体から発せられる音は、恥ずかしいと感じるようになってるんですかね?オナラしかり、ゲップしかり、お腹の音しかり。

考えたんですけど、体から発せられる音が恥ずかしいのって、自分の体調を知られちゃうのが人間の本能としてマズイと判断されるからなんじゃないでしょうか?

体調不良のわかる音(例:お腹が急降下でギュルギュル)などが周りに知れ渡ると、「今ならアイツをやっつけられるチャンス」だって、バレちゃうからじゃないでしょうか?

でも、そうなら「快調ですー♪」って感じの消化音を発したとき、もっと自信持って鼻高々でいいはずだし、古来から本能としてだと仮定しても原始人が体から発せられる音に恥じらってたとは考えにくいし、原始人が恥じらうイメージがそもそもない。

恥って文明社会独特のものなんですかね?恥って捨てられるんですかね?

 

 

音姫の話に戻りますが、

しかし、その音姫を流すのすら、なんだか恥ずかしいと思ってしまうんです。

決して、音姫を使っている人を見て恥ずかしいと思っているわけではなく、自分が使うのが恥ずかしいという話です。

 

なぜなら、音姫のザザザザもしくはカッコーカッコーなどという音が流れたとき、トイレ待ちをしている人や鏡の前で化粧を直している人に「あの人、音姫使ってるよ〜」って知らしめてしまいますし、個室を出てからも、「あの人、音姫使ってたなー」って思われてるんじゃないかって思うと、なんだか恥ずかしくて。

私の音なんか、誰も聞きたくないけど、

私の音なんか、誰も聞いてないのに、

自意識過剰で音姫流したんじゃないかって思えてきて。

 

「それはマナーだよ」と言われれば、それまでですが、マナーというのは本来気配り。

私は音姫に関しては、人一倍「申し訳ないなあ」という思いを持っていて、どんな風に振舞おうとその気持ちは変わることのないものなので、

気持ちさえあれば音姫を流そうと流すまいと、マナーにのっとっている気もします。

ですが、いくら気持ちがあっても、たとえば、くちゃくちゃ食べる人を生理的に受け付けない人もいますし、やっぱり本能的に嫌悪感を抱かせる(と多くの人が考えている)マナーは遵守せねばならぬのでしょうかね。

 

ですが、ですが、

音姫の使用は発する側の恥じらいを解消するためにあり、音を聞きたくないという声を解消するためのマナーではないですよね。くちゃくちゃ食べるのとは違う。

 

私は音姫を使えない私を認めてもいいのでしょうか。もしみんな私の音を気にしていないのなら。

決して下ネタに逃げた訳ではありませんよ。

 

伝わりやすいモノサシの作り方(不器用さん向け、社会に対する媚売り講座)/測れない脅威へのラブレター

「今日で、10ヶ月記念なんだ。」

と言われれば、「何の記念だ?」と疑問に思いつつも、何かしらを継続していることに対しては敬意を払いますよね。(内容にもよるとは思いますが、私はどんな事柄だろうとも凄いと思います。たとえ、歯磨きであっても。)

 

資格や学歴を含め、記録は褒めてもらいやすい。

一定の示準が保証されてるので、自分の大して詳しくない事柄にでも、安心してハンコを押せる。

入試や就活で有利となる「実績」と呼べるものはこれらであって、それは他者に自分の価値を測ってもらえやすい、「伝わりやすいモノサシ」であります。

 

 

対して、

「君が、君が好きなんだ!!!!!」

「御社に、御社にどうしても入りたいんです!!!!!」

という思いを、どんなに物凄い勢いでメラメラと心の中に燃やしていても、それは何か形にしなければ伝わりにくいですよね。

だから伝わりやすいモノサシもどきに形式を変換します。

たとえば、好きだという気持ちを量で表すために、100本のバラの花束を渡したり、入社したい企業への熱意を表すために、エントリーシートと別に直筆の手紙を送付する、みたいな。

 

すると、悪用する輩がやってくる。熱意偽装屋です。奴らは、熱意なんかこれっぽっちもないくせに、熱意があるように人工的に見せかけます。

熱意の偽装は「実績」を作るより楽なので、巷には熱意偽装屋が溢れています。

第一「実績」の偽装は犯罪になりますが、熱意は真実か偽装かがわかりづらいし、万が一偽装だとバレても誰も咎めません。

だから、熱意偽装屋はあなたの隣にいて、美男美女のお面をつけているのかもしれません。偽装が日常的に行われている場合、本人も気づいていないのかもしれません。教えてあげましょう。嫌われます。大きなお世話です。自分にとっての善意の押し付けです。自分も、相手も、誰も正しくないのです。ぐふっ♡

 

というか、熱意自体があやふやなものだと捉えられている節があるので、ホンモノの熱意の持ち主が迫害されてしまうことすらあると思うんです。

ホンモノの熱意の騎士が、熱意偽装屋と疑われ、摘発され、拘束されてはいませんでしょうか?

 

 

以上のように、

①「伝わりやすいモノサシ」になる「実績」を積み上げる、 

②「伝わりやすいモノサシ」っぽく熱意を変換

の2パターンを用いれば、社会に受け入れてもらえやすくなるんじゃないかな、と思います。

個人的に正攻法は①なのかなとも思いますが、①ができない人は、②の方法で頑張るのがよいかと。

けれども、本当は熱意がないのに熱意を偽装した場合、③熱意偽装屋 と化してしまいます。

それでも、全く構わないし、個人の自由だとは思いますが、熱意偽装屋になったとき、真の熱意の騎士を馬鹿にするのはやめて欲しいです。これは私個人の願いであります。

 

 

また、熱意は本来測れるものではないのに、それを無理に変換して測っているようにも感じます。そうしないと世の中、回らないのはわかりますけど。

 

もしかすると、キングオブ不器用さんは、計測のための熱意の変換すら拒み、「無理に形にするものか!!」と社会的評価をされないように潜んでいるのかもしれないと思いました。

それは誰にも認められない、むしろ蔑まれる恐れのある、この世界では大変厳しい生き方でしょう。

でもきっと素敵な方です。

そんな妖精的存在、見かけた方はぜひご一報ください。

沈黙の、た易さ

困ったら沈黙に限る。当たりは引けないが、被害は最小限に留められる。

これは自明の理として、たくさんの人に使われている手法だと思います。

 

というか、沈黙を求められる状況も多い。「素人は黙ってろ」というような。

だから口を挟んで、とんちんかんなことを言うと、睨まれることもありますね。

 

確かに余りにも勉強不足で初歩的なことも理解してない人が話に加わってきたら、全然話が進まないし、「ちょっと黙っていてください」という気持ちもわかります。

 

ですが、その場とは異質な考えだからというそれだけの理由で、沈黙を求められるのは違うのではないかと。

 

決して受容しなくていい、そこに在るだけでいい。なのに、共存は沈黙の中でしか叶わないというのか。

 

選んだ末の沈黙ならいい、でも楽だからとか、人に悪く思われたくないからとか、そんな沈黙は自分のためにはならないですよね。

やはり人が成長するためには、沈黙ではなく発信が必要なのであって。

 

沈黙は楽です。

雰囲気的に、めっちゃ考えてるよ感を醸し出せれば、馬鹿には決して見えませんし。

むしろ、ワーワー喚く人を穏やかな目で包み込んでる風にも見えます。

 

けれども、本当に沈黙しなくてはならないところで沈黙し、語らなくてはならないところで語れているのか、自分???

 

また、沈黙というカードを使い過ぎている状況に危惧した私は、語り過ぎているときがあります。

必要なとき必要な分だけ!過不足なしに語ろうよ、沈黙しようよ、自分。

今日ですら、どれだけ語れてどれだけ沈黙できたのか、全くわからない。

気持ちの矛盾(ミント編)

自分の人生をとある曲にたとえるなら、本当はこの曲を永遠にガンガンかき鳴らしたいけれども、最初から最後までクレシェンドで演奏していたら体力が持たない。
自分の体力では、クレシェンドは3回しか使えないとしたら、一体どこに使うのだろう?
その3回の中には、「3つの願い」じゃないけれど、その人の欲求とも信念とも取れる何かが表れるはず。

たとえるなら、サーティワンアイスの方がわかりやすいかもしれない。
3連のアイスを頼んだとき、フレーバーを3つ選ぶ。バランス、そして見栄えよく、イチゴ系×チョコ系×バニラ系とかを選ぶ人は多いと思うし、実際広告にもそういうカラフルなのが写ってる。
でも少なからずも3つしか選べない大切なフレーバーに、ミント!ミント!ミントって叫び続ける人もいるはずで、それは単純にミントが好きだからなのか、奇抜さを狙って周りに存在をアピールしたいのか、わからないけど、前者だとしたら人によって好き嫌いの分かれるミントというものを貫くってことだと思う。
それとともに、ミント以外のものを諦めるということだし、友達のをちょいと摘ませてもらったとしても、イチゴもチョコもナッツもパイナポーも満足に味わえない。後悔するかもしれない。だから、なるべくバランスよく頼むように、アドバイスしてくれる隣人も多いのかな??

いーや、それでもミント!ミント!ミント!私はミントを求めてる、それだけで幸せ♡となればいいけど、そして理想だけど、サーティワンアイスだけが全世界ではないから、ずっとミントには浸ってられない。
サーティワンアイスを食べた分、お金がなくなったら、夕飯はモヤシで我慢しなきゃ生活が回らないこともあるし、
そもそも田舎でサーティワンアイスを食べるには、街に出なきゃならないから、車持ってる人にゴマすらなきゃならないし、その人に「サーティワンアイス食べたいから、街に連れてって」なんて言ったなら、「そんなの無駄、無駄よ、カボチャでも食べてろ」って言われそうだから、「ニトリで食器棚買わなきゃ」とか方便を使うわけで、でもそれって方便というか嘘でもあるわけで、
結果アイスは食べられるけど、
「私はミントのために嘘をついた、私がミントを貫くのは自分に嘘をつかない、ミントのあのツンとした1本筋の通った風味に惚れてるからなのに、なんでそのミントにたどり着くために嘘をついたのだろう、矛盾」と苦しくなる。

それでもミントが欲しいので、1人でチャリにて、街へGO! 車で2時間かかるところ、チャリで3時間半かかるのは辛くて、苦しくて、途中、信号待ちで嘘ついて車に乗って街に行く知人なんか会ってに「なんて要領の悪い」なんて言われたりして、
結局、途中でパンクしてアイスにたどり着けなかったりして、それじゃなんにもならないしゃないかって思って。

結局何か選ばなきゃならないのは知ってるけれども、そんなのマトモに考えれば無理なんだ。そもそも材料が足りない、とか悲観もしたくないのに。

私はミントという象徴を愛していて、その理由は1本筋の通ったミントのツーンとした香りが好きだからで、そんな私で在りたいからミントが好きなわけで、それらだけは何1つ譲れないのに、
同じ、ミント!ミント!ミント!と叫ぶしかないし、
ミントではなく、その根幹の欲しいものである、
尊いと思える精神の一貫性!
と一言叫んでみたとしても、
それはミント味のアイスと違って形あるものではないので、幾らでも切って切って切り刻めて細分化されてしまうので、
3つの大切なものに精神性を持ち込むとなんにも成り立たない。

それでも求めたいんだ、求められないとわかっているけれども。と、たまに言葉にして解消してごまかしながら、そして行動もごまかすけれども、ごまかしていないところもあるし、矛盾は最低限にしているから、矛盾していないところを見て、素敵ですねって言わなくてもいいですが、矛盾を突いて矛盾の理由を知って一緒に世の中を笑うのは、やめましょう、きっと気持ち悪いオトモダチになってしまうので。