無理しないけどなまけない
相手の価値観に基づく正直な肯定や否定は、なんて尊く嬉しいものなのだろう。
広い心を持つことがどんなにすばらしいと言われていても、無理矢理大きく広げられた心は破けてしまうんじゃないか。
自分を成長させるためにも多少の背伸びをするのは悪くないけれども、心においては自分のキャパシティを少しでも超えるとショックを起こしがちだと思う。
だから、まずは現状を認めることから始めるべきだと思う。
嫉妬は醜い感情なのかもしれないけれども、嫉妬を認めないのもまた醜い感情なのかもしれない。むしろ無かったことにしてしまうことで醜さは増すと思う。醜いなんて主観でしか測れないけど。
そして何よりも、感情を偽ることで最も自分が苦しくなる、私は。
全員が今の時代における「満点」を付けられる答案を用意できるわけないんだから、人それぞれでいいじゃないか。もちろん、開き直りは論外だけど。
それから、決して最初からそこに逃げるわけではないけれども、「満点」以外にも努力要素はさまざまなベクトルに伸ばせるわけで、各々のよく伸ばされたものを愛でればいいと思う。
明るく元気に
明るく元気に振る舞うことが好まれ、物事は結論から話すのが良しとされる時代です。
確かに、ずーっと同じことで愚痴をこぼされていたら参っちゃうし、物事を簡潔明瞭に捉えて先に進んで行かないと、
国際社会から取り残されてしまいます。
けれども、日本人は明るく簡潔にというのが苦手な性質を持っているとも言われてきました。
しかし、ゴニョゴニョ話すのは許されづらいし、器用に明るさと簡潔さを手に入れられた人から、はっきり喋りなさいよ!と叱咤され。
個人的には外から見える明るさなんかどうだっていいと思うのです。
スイッチを点けるように声を張り上げて挨拶をするファーストフードの店員さん、口角を限界まで上げて応対する銀行の受付係。
マニュアルに沿われた丁寧な対応は、安心とともに相手が人間であることをぼやかしてゆくと思うのです。
もちろん、マニュアルは一定の基準を満たせるし、もはや職務の円滑には欠かせないものでしょう。
ですが、無理な明朗快活を私生活に持ち込むことは必ずしも得策ではないと思います。
挨拶運動における小学生の大きな声と軍隊における点呼に似通った香りを感じませんか?
言い過ぎか。
私たちが本当に欲しているのは、かぐや姫の入った竹みたいに内から輝く明るさであり、外側の愛嬌とか愛想とかそういうものでは語れないと思うのです。
そしてそれは、誰に求められても必ず応じられる魔法のランプの精みたいなものではなく、あくまで自発的に待たねばならないものだと思うのです。
ハウツー本
今日読んだ演劇の入門書は難しく、正直わからない箇所が多かったです。
どういう風に難しかったかというと、感覚として理解しなければならない演劇の構造を上手くつかめませんでした。原因は演劇について自分が知識、経験ともに無いこと、感性が鈍いことだと思うのですが、それだけではないはずです。
ですが逆に、誰にでもわかるようには書かないこと、誰にでも理解できる内容のみを書かないことがむしろ誠実さの証のように感じられました。
演劇についてよく知らない私が言うのはおこがましいですが、それは演劇という感覚の世界のことだからこそ、そう感じるのです。
世の中に流布するハウツー本というものは、初心者にわかりやすく技術を教えてくれます。目次には番号を振られた章立てが並び、準備すべき道具やそれらがどこで入手できるかまで、事細かに丁寧に書かれています。
最近では、漫画の描き方も脚本や小説の書き方も、そういったハウツー本が数多く出版されていますよね。
それらを読めば、一通りの型を学ぶことができます。
ですが、演劇や漫画、脚本、小説など、感覚の関わる分野に関しては、型を学ぶだけでは外枠の完成にもならないと思うのです。
もし型を用いようとするなら、先人の型に行き着くまでの心情を自然となぞれるような感覚を身に付ける必要があると思います。
たとえば、漫画では、登場人物の心情の盛り上がりを表現するために、コマを大きくしてはみ出さんばかりの効果線を入れます。そんなとき、それを決まりごととして丸暗記して使うのではなく、自然とそう描かざるを得ない感覚になるということです。
演劇だと、その歴史の古さと演じるという複雑さから、物凄い量の感覚が詰め込まれたルールがあるはずです。
本当は、そういう感覚はたくさんの作品に触れることで身に付けなければいけないことなのかもしれません。
ともあれ、かくあれ、今日読んだ本は、こういった感覚を含めて言語化されている点がとても凄いと思います。
上手く言えませんが、それは作品の体裁を整える以上に大切にしなければ、作品として在る意味が薄れてしまう気がするのです。
抽象的な事柄 (続 象徴か装飾か)
抽象的な事柄は解釈の幅が広がってしまいます。
前に似たようなことを「象徴か装飾か」で書きました。
表現できないことをなんとか言葉にしようとして抽象的に言わざるを得ないのと、
ただ抽象的な表現が好きで物事をぼかして表現するのと、
そもそも主張が定まっていないもしくは主張なんか根っから無いのに仰々しく語るために抽象的に表現するのとでは、
在り方が全く異なるということです。
私は1つ目を「象徴」、3つ目を「装飾」と捉えました。2つ目は主張があるかないかの状況によりけりで「象徴」か「装飾」かが異なると思います。
ですから、昨日は「抽象な複雑な作品に逃げてたまるものか」と言い残した私ですが、抽象が必ずしも悪いとかいいとかそんなことは思っていなくて、
昨日の言葉で言えば、
文学の尊さを崇め奉らせるような狙いのもと、敢えてわかりづらく抽象的に作品を書くことで、さもわかっているふうを装うことはするものか
ということです。
知識の面でも、難解な言葉が並ぶとそれだけで抽象と同じくらいの尊さを感じさせてしまいます。ですから、難解な言葉においても「象徴か装飾か」論が展開されます。
難解な言葉でしか表現できない事柄なのか
難解な言葉の雰囲気が好きで用いているのか
難解な言葉によって受け手が圧倒することを狙っているのか
1つ目は象徴というか必然性があり、3つ目は装飾的意味合いが強くなり、2つ目はやっぱり主張の大きさで変わってくると思います。
象徴と装飾の個人的な向き合い方は前に書いたので置いておくとして、
よく聞く、
難解な言葉を誰にでもわかりやすい平易な言葉に置き換えて説明せよ、
というのは、1つ目以外の場合に向けて言われていると思います。
確かに恣意的に難解にされることで、主張は伝わりづらくなります。何か伝えたいことがあるなら、万人にわかりやすくせよという意見もわからなくない。
しかし、それは装飾の耽美であることを知らぬから、書き手の中には装飾の耽美を大事にしている者がいることを想像しないから言えることだとも思います。
四六時中「私のことわかってよ、バカバカバカ」とでも言っている人は例外ですが、ただ好みとして装飾を用いている人に対して、わかりやすさを要求するのは、
ファッションにこだわりを持ち、トイレのとき面倒くさそうな長いスカートを引きずったりラーメンをすするとき邪魔になりそうな長い髪を下ろしている人に対して、「動きづらいからジャージを着なよ」と言っているようなものだと思うのです。
本人が利便性より美しさを求めているなら、そしてそれに文句をつけないならそれでもよくて。
というか、ファッションには装飾が理解され、文章には難解さという装飾に苛立ちを感じられるのはなぜなのでしょう?確かに、仕事中も敢えて難解な言葉を選んで使われたりするのは避けたいですが。
まあ、授業でも小説を嫌というほど読まされますし、「なんでこの筆者、帝大主席卒業のくせしてこんなわかりづらいこと書くんだよ、バカバカバカ。凡人に優しくしろ」って思うのもわからなくはないですけど。
人にはいろんな思いといろんな特性があって、できること、できないこと、できてもやりたくないこと、いろいろあるから、みんな違って複雑に絡まっているから、完全に理解できないのだと思います。
そして完全に理解できないことを念頭に置いておかないと、理解できないことに対して理解させるような説明を求めてしまうこともあるのだと思います。
それは、完全な理解を求む教育の成果とも言えるし、そうしないと文学を教材として扱うことが難しくなることもわかるのですが。
書くことの傲慢さに向き合(おうとしている状況)
書くという行為は傲慢な一面もある
と改めて感じます。
ご存じの通り、書くことは自分のターンを自分で調節できるので、好きな範囲のみ述べることを許してくれます。紙の上を操る創造主は自分自身だから、好きな方向に舵をとれるし、好きなところで止められます。
ですから、書くことは良くも悪くも独りよがりになりがちなのではないでしょうか。
とは言っても世間の目に触れるものは、社会的なデメリットを考えて緊張感のある文章にしたり、模範的なテンプレートな文章にしたりと、これまた自分の手によって操縦され、調整されることが多いので、大抵、独りよがり感が出にくい文章に仕上がりますが。
なので、反対に匿名の文章や趣味で書かれた文章は、独りよがりになりがちだと思うのです。独りよがりなことが必ずしも悪いとは思いませんが。
私小説においては、主人公への客観視のない小説を評価しないという傾向があるそうです。私は、これが独りよがりな文章を評価しないという意味に思えます。
「自分を重ねた主人公=自分」を絶対的な正義として書かれた文章は、自分のご都合主義で書かれているので、読んでいて滑稽に思えるのではないでしょうか。もちろん、それだっておもしろいものはありますが。
例外もたくさんありますが、自分の悪い評価、つまりは痛々しさと向き合うのが文学であるとも言えると思います。
それから、人類の歩みの中で書くことは話すこと以上に重きを置かれてきたので、書くことに謎の尊さがこびりついてしまったとも言えると思います。
文学は高尚なもの、俗人に理解できないものとして、芸術的な側面を持っています。その尊さは一人歩きし、文学を得るのではなく文学の尊さを得ようとする動きが生まれてきたように感じます。
そして、受け手も反射的に文学の尊さを念頭に置いて文学に接するものだから、文学の尊さは維持され続け、尊ばれるにそぐわないものですら尊ばれていることもあります。それが文学を傲慢にさせているとも言えると思うのです。
片や、文学部はどの大学にも設置されながら、役に立たない学部として名を馳せ、もはや文学の尊さすら得ようとする者が減っています。しかも少数の文学の尊さのみを得ようとしている者は、ますます世間に文学を曲解させていくと思います。
文学を含め、書くことはそのものの価値ではないところが大きく膨らんで目立ってしまったことで、本来の書くという行為に目がいかなくなってしまったのだと思います。
だからこそ、書くことが傲慢だと感じられるわけで。
傲慢でない書き手であるためには、自分にとって苦しいことも認めて書く必要があり、書くということに甘える自分と向き合う必要があるのだと思います。
相手のペースで話せないから書くんだという弱さを知らないと、私は自分に申し訳が立ちません。そしてそれでも故意に抽象的な複雑な作品に逃げるものかと思うのです。
今日もケバブ。
でも付け入られないように怖い顔して歩くのもなんだかな。
ワンワンはニコニコしてると愛される。散歩してるワンワンが尻尾をフリフリしていると、あーかわいいねーって愛でられる。たとえ毎日道端に落し物をしていても、そしてそれが飼い主によって持ち帰られることがなくても、気付かれなかったら愛でられる。
若くてかわいい女の子がニコニコ笑ってたら缶コーヒー奢ってもらえる。
ニコニコしてるイケメンはお弁当屋さんでオマケしてもらえる。場合によっては、無表情でもオマケしてもらえる。
それ以外の人は?ニコニコしてたらヘラヘラしてんじゃないよって注意されない?ニコニコしてると舐められない?
この人からなら肉を削げるって思われてしまう。削げるだけ削ぎ取られてしまう。
人として舐められてるってことなんだろう。骨だけ残って捨てられる。もしくは鍋に入れて、出汁を取られる。そして捨てられる。
利用されることは辛いけど、まだ単純明快かもしれない。
利用すらされないのに、ただただ感情の赴くままに肉を削がれるとただただ哀しい。
互いに向き合った結果、削がれるなら仕方ないように思う。それは搾取というより、因縁で。因縁なら、ニコニコしてなくても削ごうとしてくるはず。実際に因縁をつけるつけないはともかく、どんな相手にでも因縁をつけられる度胸と心構えで言葉を紡ぎたい。逃げちゃうこともあるけど。
ただただ舐められて削がれると感傷に浸りたくなる。
傷つかないように般若のお面を付けて歩く人も否定できない。
舐められたくない気持ちはわかる。
でも去勢を張るのはもううんざり。
何と戦っているのか、さっぱりわからないのです。
異なる意見を取り入れるか否か
生活や仕事上の効率化に役立つことは、幾らでも人の意見を取り入れられる。利便性の向上や時間の短縮を嬉しく思う。
けれども、どうしても精神的な在り方になると、人の意見を取り入れられない。自分を押し通す形になってしまうことが多いし、押し通せない場合は関係が切れてしまうことも多い。それでも尊重はし合えるので、ウチはウチ、ヨソはヨソでやってゆけばいいし、そういうときだってあるのだけど。
精神的な在り方だって、共通認識があれば意見を聞くことができて、取り入れられるときもある。でも自分の考えとは全く違うところに重きを置かれている意見は理解できても、魅力的に感じないことがある。
それは自分と違うから排除というわけではなく、ただ単に好みの問題なのかも。
だからって自分と意見を異にする人と話すこと、意見を交わすことを止めようとは思わない。むしろ積極的に取り組みたい。
話は飛ぶけど、相手の魅力というより、相手の魅力的だと考えているものを知ることの方が、相手を理解できるのかもしれない。
そしてその好き嫌いにかかわらず、相手にとっては魅力なんだなーと頭の片隅に置いて、お互い話せれば、押し付け合うこともなくなるかも。