表現への情熱を愛するみたいなサムシング
怪獣の背中の棘やら色の付いたスモークやらオープニングの映像やら一つひとつ細かくこだわっていて、作品の世界観のためには地道にどんなことでもしたのだろうなぁ……。きっと意外なものを発想の素にしているものも多いはずで。
そうやって物事をゼロから作り上げた人は本当に尊敬します。
試行錯誤しながらこだわり抜いて作り上げたっていう熱を愛しているから、たまらず触れてしまう。
表現ってそういうものだなあとしみじみ感じます。
日清のカップヌードルも強いパッションが咲かせた花ですし、表現に近いもの、というか表現なんじゃないかと思うんです。横浜にミュージアムもあるし。
こんなふうに、表現のどこを愛しているのか愛していないのかっていう話がしたい。
べた褒めでなくても、愛するがゆえの期待を込めた辛い批評とか、愛せない理由とか、とてもいい。
逆に、自分を賢く演出する材料としての批評は、または愛のない分析は、伝えるというより押し付けるになってしまうんじゃないかなと思う。
どんなところがどう素敵か、素敵じゃないか、
つっかえようが、ぐちゃぐちゃこんがらがろうが、伝えようとする、聞こうとする関係、
お互いに、誠実さだけは対等に、それを聞ける人、話せる人と友達になりたい。