フテブテの歩み

ゆき。傲慢な小娘。自称文筆家。

36 抽象的な事柄 (続 象徴か装飾か)

抽象的な事柄は解釈の幅が広がってしまいます。

前に似たようなことを「象徴か装飾か」で書きました。

表現できないことをなんとか言葉にしようとして抽象的に言わざるを得ないのと、

ただ抽象的な表現が好きで物事をぼかして表現するのと、

そもそも主張が定まっていないもしくは主張なんか根っから無いのに仰々しく語るために抽象的に表現するのとでは、

在り方が全く異なるということです。

 私は1つ目を「象徴」、3つ目を「装飾」と捉えました。2つ目は主張があるかないかの状況によりけりで「象徴」か「装飾」かが異なると思います。

 

ですから、昨日は「抽象な複雑な作品に逃げてたまるものか」と言い残した私ですが、抽象が必ずしも悪いとかいいとかそんなことは思っていなくて、

昨日の言葉で言えば、

文学の尊さを崇め奉らせるような狙いのもと、敢えてわかりづらく抽象的に作品を書くことで、さもわかっているふうを装うことはするものか

ということです。

 

知識の面でも、難解な言葉が並ぶとそれだけで抽象と同じくらいの尊さを感じさせてしまいます。ですから、難解な言葉においても「象徴か装飾か」論が展開されます。

難解な言葉でしか表現できない事柄なのか

難解な言葉の雰囲気が好きで用いているのか

難解な言葉によって受け手が圧倒することを狙っているのか

1つ目は象徴というか必然性があり、3つ目は装飾的意味合いが強くなり、2つ目はやっぱり主張の大きさで変わってくると思います。

 

 象徴と装飾の個人的な向き合い方は前に書いたので置いておくとして、

 

よく聞く、

難解な言葉を誰にでもわかりやすい平易な言葉に置き換えて説明せよ、

というのは、1つ目以外の場合に向けて言われていると思います。

確かに恣意的に難解にされることで、主張は伝わりづらくなります。何か伝えたいことがあるなら、万人にわかりやすくせよという意見もわからなくない。

しかし、それは装飾の耽美であることを知らぬから、書き手の中には装飾の耽美を大事にしている者がいることを想像しないから言えることだとも思います。

四六時中「私のことわかってよ、バカバカバカ」とでも言っている人は例外ですが、ただ好みとして装飾を用いている人に対して、わかりやすさを要求するのは、

ファッションにこだわりを持ち、トイレのとき面倒くさそうな長いスカートを引きずったりラーメンをすするとき邪魔になりそうな長い髪を下ろしている人に対して、「動きづらいからジャージを着なよ」と言っているようなものだと思うのです。

本人が利便性より美しさを求めているなら、そしてそれに文句をつけないならそれでもよくて。

 

というか、ファッションには装飾が理解され、文章には難解さという装飾に苛立ちを感じられるのはなぜなのでしょう?確かに、仕事中も敢えて難解な言葉を選んで使われたりするのは避けたいですが。

まあ、授業でも小説を嫌というほど読まされますし、「なんでこの筆者、帝大主席卒業のくせしてこんなわかりづらいこと書くんだよ、バカバカバカ。凡人に優しくしろ」って思うのもわからなくはないですけど。

 

人にはいろんな思いといろんな特性があって、できること、できないこと、できてもやりたくないこと、いろいろあるから、みんな違って複雑に絡まっているから、完全に理解できないのだと思います。

そして完全に理解できないことを念頭に置いておかないと、理解できないことに対して理解させるような説明を求めてしまうこともあるのだと思います。

それは、完全な理解を求む教育の成果とも言えるし、そうしないと文学を教材として扱うことが難しくなることもわかるのですが。