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フテブテの歩み

ゆき。傲慢な小娘。自称文筆家。

書くことの傲慢さに向き合(おうとしている状況)

書くという行為は傲慢な一面もある

と改めて感じます。

 

ご存じの通り、書くことは自分のターンを自分で調節できるので、好きな範囲のみ述べることを許してくれます。紙の上を操る創造主は自分自身だから、好きな方向に舵をとれるし、好きなところで止められます。

ですから、書くことは良くも悪くも独りよがりになりがちなのではないでしょうか。

とは言っても世間の目に触れるものは、社会的なデメリットを考えて緊張感のある文章にしたり、模範的なテンプレートな文章にしたりと、これまた自分の手によって操縦され、調整されることが多いので、大抵、独りよがり感が出にくい文章に仕上がりますが。

なので、反対に匿名の文章や趣味で書かれた文章は、独りよがりになりがちだと思うのです。独りよがりなことが必ずしも悪いとは思いませんが。

 

私小説においては、主人公への客観視のない小説を評価しないという傾向があるそうです。私は、これが独りよがりな文章を評価しないという意味に思えます。

「自分を重ねた主人公=自分」を絶対的な正義として書かれた文章は、自分のご都合主義で書かれているので、読んでいて滑稽に思えるのではないでしょうか。もちろん、それだっておもしろいものはありますが。

例外もたくさんありますが、自分の悪い評価、つまりは痛々しさと向き合うのが文学であるとも言えると思います。

 

 

それから、人類の歩みの中で書くことは話すこと以上に重きを置かれてきたので、書くことに謎の尊さがこびりついてしまったとも言えると思います。

 

文学は高尚なもの、俗人に理解できないものとして、芸術的な側面を持っています。その尊さは一人歩きし、文学を得るのではなく文学の尊さを得ようとする動きが生まれてきたように感じます。

そして、受け手も反射的に文学の尊さを念頭に置いて文学に接するものだから、文学の尊さは維持され続け、尊ばれるにそぐわないものですら尊ばれていることもあります。それが文学を傲慢にさせているとも言えると思うのです。

 

片や、文学部はどの大学にも設置されながら、役に立たない学部として名を馳せ、もはや文学の尊さすら得ようとする者が減っています。しかも少数の文学の尊さのみを得ようとしている者は、ますます世間に文学を曲解させていくと思います。

 

 

文学を含め、書くことはそのものの価値ではないところが大きく膨らんで目立ってしまったことで、本来の書くという行為に目がいかなくなってしまったのだと思います。

だからこそ、書くことが傲慢だと感じられるわけで。

傲慢でない書き手であるためには、自分にとって苦しいことも認めて書く必要があり、書くということに甘える自分と向き合う必要があるのだと思います。

黙っていられないから書くんだ、相手のペースで話せないから書くんだという弱さを知らないと、私は自分に申し訳が立ちません。そしてそれでも故意に抽象的な複雑な作品に逃げるものかと思うのです。