フテブテの歩み

ゆき。傲慢な小娘。自称文筆家。

象徴か装飾か

象徴を用いれば、1語にいろんな意味を込めることができる。というか、先人たちによって込められた意味に全く影響されないことの方が難しい。

 

象徴は深読みをさせる。

たとえばリンゴには、禁断の果実、頭上の矢の刺さったリンゴ、ニュートンの引力のひらめき、キティちゃんの体重(リンゴ3個分)といったことを連想させる。

そして、禁断の果実や矢の刺さったリンゴの話を知っていれば、リンゴと聞いただけで神々しい印象を受ける。

それは半ば反射的なものかもしれず、「もこみち」さんという名前を聞いただけで勝手に芸能人のもこみちさんを連想してしまい、全国のもこみちさんはイケメンで長身と無意識に想像してしまうようなことに近いと思う。

 

だから、象徴は共通認識がある上で成り立つ。

リンゴについて、キティちゃんの体重がリンゴ3個分であることしか情報を持っていない人と、禁断の果実の話しか情報を持っていない人では、リンゴに対する見方が異なる。

 

象徴がわんさか盛り込まれている作品を解釈するには、作者の背景を読み解いて、作者の象徴観を学ばなければならないのだ。

 

象徴は名前の付けられたフォルダのようなもので、中には、歴史も、その歴史から学んだ教訓も、いろんな先行文献も詰まっていて、全部開けてみるのは不可能なぐらいの複雑怪奇な思想がごった返してる。

だから自分なりの解釈しかできない。

象徴となりそうなモチーフの詰まった作品は、外から見た分量より多くの要素が込められている。重い。

パッと見たり読んだりするだけじゃ表層しか理解できない。

だから観賞者は、象徴に敏感になる。象徴を見つけると深読みしようとする。作品を理解するために。

作り手の中には、その心理を逆手に取ってるんじゃないかと思われる賢い頭の持ち主もいる。

象徴、もしくは象徴っぽいものを散りばめた作品、本当にその象徴をそこに配置する必要があったのかなかったのか、勝手に意味づけをしてくれる知識豊富な観賞者に甘えてはいないのか?

 

本来象徴とは、うまく伝えられないことや伝わりにくいこと、はっきり宣言すると危いものを、伝えるためのものだったんじゃないのか?

なぜわざわざ思想を読み取られにくいように隠すのか?

象徴を象徴と捉えておらず、装飾として置いただけなのか?

作り手が「これは飾りです」って言わないから、観賞者が勝手に誤解するのか?

観賞者が本当は象徴と装飾の違いをわからないのに、知ったふうに振る舞うのか?