フテブテの歩み

文筆/脚本/シナリオ/演劇///ハンドメイド/タロット​ ◆表現ユニット燃ゆる塵芥主宰 HP→https://yukifutebute.wixsite.com/yuki-fute-bute

スギの生命力

ここ最近、毎日頭にあるのはスギ花粉のこと。

早くも日本中を舞い始め、朝起きると喉が痛むし、くしゃみが止まらない。

その存在感、なんて圧倒的なのだろう。

 

一見綺麗ではないけど強い生命力を持つもの、それは案外愛でてもらえることもある。

ドブネズミとか雑草とか野良犬とか。

 

間接的な気づきではあるけれども、スギだって物凄い生命力の塊だ。

スギは雌雄同株で1本の木の中で受粉ができるのにそれに甘んじず、一部の花粉は風によって遠くの木の雌花とも交配する。

オマケに地球を支配したかのような心持ちでいる人間に、アレルギー反応によってその存在をたらしめている。しかも無意識的に。

人間が自分の存在を他に広めようとするとき、強烈な意思が芽生えるのに対して、スギは多分そんなこと無自覚に、ただ自然のあるがままに花粉を飛散させている。

しかも駅前で毎日配られているコンタクトレンズ販売のビラに劣らず、期間限定であるにせよ毎日、一銭もかけずに「スギ(花粉)」の名は着実に広まり、人間の頭や思考を侵食していく。

これこそが生命の強さでなくては、なんなのだろう。

 

好きな人のタイプは、スギ花粉のごとく生命力豊かな人ですって声だって挙がってもいいくらい。

 

もちろん、それでも花粉症は辛いものです(笑)

他人の目

ここ2年くらい、他人の目を気にしなくなった。

 

以前は目立つことが嫌で徹底的に空気になろうとしたり、暖色の服を一切着なかったり、

今考えるとおおげさに思うかもしれないけど、そのときは悩んだ末の決断で。

 

今は毎日、自分に時間をかけて過ごせていて、いい傾向だなと感じているのだけれども、

他人の目を気にしなくなったそのぶん自分の目が厳しくなってるなと思う。

 

自分の目がギラギラ光ってきて、自分のすることを自分自身でふるいにかけてる。

多分、それは私的には良いことで、自分を愛すために自分に責任を持とうとするがゆえの行動で。

 

気をつけているのは、自分の目が他人に向き過ぎないようにすること。

自分の価値観だけで相手を評価したりせずに、相手の頑張っていることを相手の目を通して見なきゃならない。

もちろん、他人の目を借りることは不可能で、だから相手の向いてる方角を一緒に眺めることくらいしかできないのだけれども、それでもしないよりする方がいいし、気をつけないとそれすらもできなくなってしまうので。

日々のバランス

小手先で考えたような、器用な人なら誰でも作れそうなものは嫌だなって思って、奇を衒うのも、ちょっと気の利いたくらいの言葉を発信するのも、辞めたけれども、

不器用だねって言われることを自分の一番大事な支えにしてしまって、闘いから逃げるのも、また本質から遠ざかっていく気がして、

そんなことを毎日繰り返して繰り返して日々が過ぎていく。

 

日々が過ぎていく、という

その文字面や語感すら、自分自身を認めてしまいそうなアンニュイな雰囲気が漂うものだから、もうそれも無しにしようと思って、

でもそんな外側でなんでもかんでも排除して結局自分の骨すらいらないものだと言いかねないような勢いで生きると多分、破滅してしまう。

 

想定された用途と実際の活用は別のものだと理解していないから、気軽に捨てようとするのかもしれない。

 

自分以外にも、もっと他にも目を向けなきゃ。

それがどうしてそうなったか想像しなきゃ。たとえ誰にも自分の内側を想像してもらえなかったとしても、その人が自分の内側を想像しなかった理由まで想像しなきゃ。

寛容なフリをして取り繕うのが嫌なら想像しなきゃ。

 

どうして小手先が嫌かも小手先が増えているかも想像して、たくさん想像して、そしたらそれを咀嚼してしまって、とりあえず次に行って、それでまた気になったら反芻して。

きっとそうやってバランスをとっていられる間は、心を自分のものにできるはず。

でもそれが最上に素敵な自分なのか、器用な自分なのか、真理を追求しなかった恥ずべき自分なのか、まだ考え方を定めてしまえるほどには自分の軸を彫れていない。

ので、彫るための時間を得るためにも今はバランスをとるしかない、のか。

ニセモノと呼ばれがちなホンモノ

どうしてもホンモノになれないときは、これはレプリカですって、はっきり表記したい。

 

松茸の素っていうお吸い物の粉末、アレと椎茸でご飯を炊くと、松茸ご飯っぽいモノを安く作れる。

しかもきちんと松茸ご飯を作るときより、調味料の分量や炊飯時間の失敗が少なかったりする。

 

どっちも一長一短なので、どっちかが尊いとは思ってない。

それよりか、世間的な価値よりも大事なのは、それそのものを偽らないことだと思う。

松茸風ご飯を松茸ご飯と偽らないことだ。

 

食品だって、産地ではなく産地の偽装が問題なわけで。

偽装するという心が美しくないのだ。

 

だから、松茸風ご飯も、たとえば料亭なんかで松茸ご飯として偽って提供されていたら許しがたいわけで。

そうではなくて、クックパッドに「安ウマ!カンタン!松茸風ご飯」として登録すれば、みんな喜ぶ美味しい料理として価値ある一品になるわけで。

 

ホンモノかニセモノかは大きな問題ではなく、それを偽るのが引っかかる。

 

人間の内面に関しては、そもそもホンモノって何?ってなるけれども。

演出によって出来上がった自分を、素の自分です、天然モノです、なんてやり方では、きっと天然好きな人からも、天然風なモノが好きな人からも、見つけて貰いづらいと思う。

 

なんだかわからないけど、偽らないでいたい。

そして偽らないという意味では、

誰かにニセモノや二番煎じと呼ばれがちであっても、ホンモノでいられると信じていたいし、信じている。

達成感

目標とその達成の繰り返しによって人生が成り立っている人。

逐一目標を定めて行動し、達成感を得て進んでゆく人は、これからも目標に体当たりしていけば、自分の人生自体には絶望しないのかもしれない。

達成できずに諦めたり諦めたりしたくなったりすることはあるだろうけど、自分がどこに進みたいかは明確なはずで。もちろん、そんなに簡単なことではないけど。

 

苦しくのなるのは、ある目標を達成した先に楽しみがあると信じていた人だと思うのです。達成できたこと自体に喜ぶのではなく、達成によって何か楽しいことが起こると期待している人です。

じゃんじゃん目標を達成していった先に桃源郷があると思っていた人は、いざ目標が達成できたときに桃源郷が無いと気付いて絶望するのだと思います。

 

そのよい例が受験であり、

合格の際に達成感を得て、入学後も試験ごとの努力で達成感を得て満足するのは前者であり、

後者は、合格の達成感より、他の理由、例えば何か楽しい学生生活があるかもしれないという理由で受験をすると言えると思うのです。

 

自分が楽しむためには、楽しくなる準備をすることも大切ですが、それ自体が楽しいことではないとスカを引いてしまいかねないのではないでしょうか?

だから、達成する快感が好きな人以外は、直接好きなことに繋がる目標を立てないと苦しくなるかもしれないと思うのです。

 

直接は関係ありませんが、それでも学びから逃げろってわけでは絶対にありません。

 

私はいろんな方にお世話になりつつ、楽しいと思っていることをやらせていただいています。目標なんかもうよくわかりませんが、何かを達成すること自体も嬉しいですし、むしろ達成できずとも取り組んでいる瞬間が楽しいです。私は単純で幸せ者なのかもしれない。

感性

自分の感性を信じるのは大変尊いことだと思いますが、その感性を他者との距離を置いたり詰めたりする際の絶対的な判断基準としてしまうのは危ういと思います。

 

確かに経験から基づく感性、いわゆる「勘」というものは当たることだって多いだろうし、それを元に自分の行動を決定することもあってよいと思います。

ですが、全てが自分の感性による判断であると、他者を寄せ付けない人間になってしまうと思います。

相手の行動の根拠を知ったり想像したりした上で、自分の感性を信じれば独りよがりさは薄れると思うのです。

仮に独りよがりであってもいいと思うのですが、独りよがりの何を危惧しているかって、独りよがりでは自分の心の内でしか生きられないと思うからです。

 

若い頃は素敵な感性の持ち主でも、磨いていかないと鮮度が落ちてしまうんじゃないでしょうか?

歯は毎日使いますから、白を保つには歯より硬いダイヤモンドで、削るように磨かなければいけません。

感性も歯と一緒で、自分の感性と同じかそれ以上に硬い感性で削るように磨かなければならないと思います。

きっと感性は削るようにしか磨けないし、しかも削り過ぎると無くなったり使い物にならなくなったりしまうし、けれども削らなくても使い物にならなくなってしまうんだと思います。

 

本当のところ、歯は歯磨きさえすれば衛生上は問題ないかもしれないし、白を保つという目的がないなら、いじらない方がいいのかもしれませんが。

しかし感性だけは、そうはいかないと思うのです。

40 こだわり

おいしいランチを食べました。

コンクリート打ちっぱなしの壁には幾つかの抽象画が掛けられ、木の香りの残るテーブルと硬いイスが並んでいます。照明はLEDだけど、オレンジ色の白熱灯風。

丸いチタンフレームの眼鏡にゆるいパーマの店員さんが、麻布のエプロンを着て接客してくれます。

隣の人と同じものを頼んだのに、食器はバラバラ。でも形と色こそ違うけど、陶器の素材は一緒で統一感を感じる。わざとズラしてる。

名前の知らない葉っぱがたくさん入ったサラダはほのかに酸味がする。主菜は凝った和え物が添えられていて、お肉にかけるとなんだかもうよくわからないけどおいしい。パンというかベーグルというかそういった類のものも、市販品とは違う弾力がある。

 

こういうお店が好きな人っていますよね。主にカフェや輸入雑貨が好きな人たち。

それから、こういうお店が好きな人をバカにする人たちもいますよね。

 

こういうお店が好きな人たち、いわゆる「意識が(この場合は生活の方向に)高い」と言われている人たちは、なぜこういうお店が好きなのか?

確かに私が今日行ったお店もさまざまなことをこだわってはいましたが、それにはあくまで型を守った上でのこだわりだと思うのです。

私が「こういうお店」と表現したお店、つまりこだわりを持った自然体なカフェは、今の日本の至るところにあります。

こういうお店はどこでも、どちらかといえば、壁紙があるのよりはコンクリート打ちっぱなしを選ぶし、ファストフードにあるようなステンレスのテーブルとイスよりは木製のテーブルとイスを選ぶし、照明も白っぽいものよりオレンジっぽいものを選ぶ傾向にあると思います。そしてその選びがちな方の中から、テーブルや照明、食器をこだわって選ぶのではないでしょうか。

 

だから、自分の通い詰めている一軒の「こういうお店」が特別に好きなのか、「こういうお店」全体、言い換えると、こだわりの持った自然体なカフェというジャンル全体が好きなのかで意味が変わってくると思います。

そして前者の中でも、たくさんの「こういうお店」に通った上で自分の好きな一軒を決めたか、たまたま入った「こういうお店」が好きになったかでまた違うと思います。

たくさんの「こういうお店」に通った上で一軒を決めたならば、それは「こういうお店」というジャンルの中での1番の好きですし、たまたま入った「こういうお店」が好きだったならば、それはそのお店が特別好きだったのかもしれないし、「こういうお店」というジャンルが好きなのかもしれないので、たくさんの「こういうお店」に行かないことにはわかりません。

 

「こういうお店」が好きな人をバカにする人というのは、「こういうお店」好きな人が、どのような「こういうお店」に対しても盲目的であると感じ、違和感を覚えているのではないでしょうか?

また「こういうお店」の店主が、自分の「こだわり」に型があることを気づかず、ゼロからこだわったような顔をしていると、我慢ならないのかもしれません。それはよく言われる「個性派」というジャンルとも近いと思います。

まあ、ただ単純に生活にこだわりを持つのが煩わしいと感じているだけの人もいるでしょうが。

 

今日も、みんな違ってみんないいですね。バンザイ。