ニセモノと呼ばれがちなホンモノ
どうしてもホンモノになれないときは、これはレプリカですって、はっきり表記したい。
松茸の素っていうお吸い物の粉末、アレと椎茸でご飯を炊くと、松茸ご飯っぽいモノを安く作れる。
しかもきちんと松茸ご飯を作るときより、調味料の分量や炊飯時間の失敗が少なかったりする。
どっちも一長一短なので、どっちかが尊いとは思ってない。
それよりか、世間的な価値よりも大事なのは、それそのものを偽らないことだと思う。
松茸風ご飯を松茸ご飯と偽らないことだ。
食品だって、産地ではなく産地の偽装が問題なわけで。
偽装するという心が美しくないのだ。
だから、松茸風ご飯も、たとえば料亭なんかで松茸ご飯として偽って提供されていたら許しがたいわけで。
そうではなくて、クックパッドに「安ウマ!カンタン!松茸風ご飯」として登録すれば、みんな喜ぶ美味しい料理として価値ある一品になるわけで。
ホンモノかニセモノかは大きな問題ではなく、それを偽るのが引っかかる。
人間の内面に関しては、そもそもホンモノって何?ってなるけれども。
演出によって出来上がった自分を、素の自分です、天然モノです、なんてやり方では、きっと天然好きな人からも、天然風なモノが好きな人からも、見つけて貰いづらいと思う。
なんだかわからないけど、偽らないでいたい。
そして偽らないという意味では、
誰かにニセモノや二番煎じと呼ばれがちであっても、ホンモノでいられると信じていたいし、信じている。
達成感
目標とその達成の繰り返しによって人生が成り立っている人。
逐一目標を定めて行動し、達成感を得て進んでゆく人は、これからも目標に体当たりしていけば、自分の人生自体には絶望しないのかもしれない。
達成できずに諦めたり諦めたりしたくなったりすることはあるだろうけど、自分がどこに進みたいかは明確なはずで。もちろん、そんなに簡単なことではないけど。
苦しくのなるのは、ある目標を達成した先に楽しみがあると信じていた人だと思うのです。達成できたこと自体に喜ぶのではなく、達成によって何か楽しいことが起こると期待している人です。
じゃんじゃん目標を達成していった先に桃源郷があると思っていた人は、いざ目標が達成できたときに桃源郷が無いと気付いて絶望するのだと思います。
そのよい例が受験であり、
合格の際に達成感を得て、入学後も試験ごとの努力で達成感を得て満足するのは前者であり、
後者は、合格の達成感より、他の理由、例えば何か楽しい学生生活があるかもしれないという理由で受験をすると言えると思うのです。
自分が楽しむためには、楽しくなる準備をすることも大切ですが、それ自体が楽しいことではないとスカを引いてしまいかねないのではないでしょうか?
だから、達成する快感が好きな人以外は、直接好きなことに繋がる目標を立てないと苦しくなるかもしれないと思うのです。
直接は関係ありませんが、それでも学びから逃げろってわけでは絶対にありません。
私はいろんな方にお世話になりつつ、楽しいと思っていることをやらせていただいています。目標なんかもうよくわかりませんが、何かを達成すること自体も嬉しいですし、むしろ達成できずとも取り組んでいる瞬間が楽しいです。私は単純で幸せ者なのかもしれない。
感性
自分の感性を信じるのは大変尊いことだと思いますが、その感性を他者との距離を置いたり詰めたりする際の絶対的な判断基準としてしまうのは危ういと思います。
確かに経験から基づく感性、いわゆる「勘」というものは当たることだって多いだろうし、それを元に自分の行動を決定することもあってよいと思います。
ですが、全てが自分の感性による判断であると、他者を寄せ付けない人間になってしまうと思います。
相手の行動の根拠を知ったり想像したりした上で、自分の感性を信じれば独りよがりさは薄れると思うのです。
仮に独りよがりであってもいいと思うのですが、独りよがりの何を危惧しているかって、独りよがりでは自分の心の内でしか生きられないと思うからです。
若い頃は素敵な感性の持ち主でも、磨いていかないと鮮度が落ちてしまうんじゃないでしょうか?
歯は毎日使いますから、白を保つには歯より硬いダイヤモンドで、削るように磨かなければいけません。
感性も歯と一緒で、自分の感性と同じかそれ以上に硬い感性で削るように磨かなければならないと思います。
きっと感性は削るようにしか磨けないし、しかも削り過ぎると無くなったり使い物にならなくなったりしまうし、けれども削らなくても使い物にならなくなってしまうんだと思います。
本当のところ、歯は歯磨きさえすれば衛生上は問題ないかもしれないし、白を保つという目的がないなら、いじらない方がいいのかもしれませんが。
しかし感性だけは、そうはいかないと思うのです。
40 こだわり
おいしいランチを食べました。
コンクリート打ちっぱなしの壁には幾つかの抽象画が掛けられ、木の香りの残るテーブルと硬いイスが並んでいます。照明はLEDだけど、オレンジ色の白熱灯風。
丸いチタンフレームの眼鏡にゆるいパーマの店員さんが、麻布のエプロンを着て接客してくれます。
隣の人と同じものを頼んだのに、食器はバラバラ。でも形と色こそ違うけど、陶器の素材は一緒で統一感を感じる。わざとズラしてる。
名前の知らない葉っぱがたくさん入ったサラダはほのかに酸味がする。主菜は凝った和え物が添えられていて、お肉にかけるとなんだかもうよくわからないけどおいしい。パンというかベーグルというかそういった類のものも、市販品とは違う弾力がある。
こういうお店が好きな人っていますよね。主にカフェや輸入雑貨が好きな人たち。
それから、こういうお店が好きな人をバカにする人たちもいますよね。
こういうお店が好きな人たち、いわゆる「意識が(この場合は生活の方向に)高い」と言われている人たちは、なぜこういうお店が好きなのか?
確かに私が今日行ったお店もさまざまなことをこだわってはいましたが、それにはあくまで型を守った上でのこだわりだと思うのです。
私が「こういうお店」と表現したお店、つまりこだわりを持った自然体なカフェは、今の日本の至るところにあります。
こういうお店はどこでも、どちらかといえば、壁紙があるのよりはコンクリート打ちっぱなしを選ぶし、ファストフードにあるようなステンレスのテーブルとイスよりは木製のテーブルとイスを選ぶし、照明も白っぽいものよりオレンジっぽいものを選ぶ傾向にあると思います。そしてその選びがちな方の中から、テーブルや照明、食器をこだわって選ぶのではないでしょうか。
だから、自分の通い詰めている一軒の「こういうお店」が特別に好きなのか、「こういうお店」全体、言い換えると、こだわりの持った自然体なカフェというジャンル全体が好きなのかで意味が変わってくると思います。
そして前者の中でも、たくさんの「こういうお店」に通った上で自分の好きな一軒を決めたか、たまたま入った「こういうお店」が好きになったかでまた違うと思います。
たくさんの「こういうお店」に通った上で一軒を決めたならば、それは「こういうお店」というジャンルの中での1番の好きですし、たまたま入った「こういうお店」が好きだったならば、それはそのお店が特別好きだったのかもしれないし、「こういうお店」というジャンルが好きなのかもしれないので、たくさんの「こういうお店」に行かないことにはわかりません。
「こういうお店」が好きな人をバカにする人というのは、「こういうお店」好きな人が、どのような「こういうお店」に対しても盲目的であると感じ、違和感を覚えているのではないでしょうか?
また「こういうお店」の店主が、自分の「こだわり」に型があることを気づかず、ゼロからこだわったような顔をしていると、我慢ならないのかもしれません。それはよく言われる「個性派」というジャンルとも近いと思います。
まあ、ただ単純に生活にこだわりを持つのが煩わしいと感じているだけの人もいるでしょうが。
今日も、みんな違ってみんないいですね。バンザイ。
無理しないけどなまけない
相手の価値観に基づく正直な肯定や否定は、なんて尊く嬉しいものなのだろう。
広い心を持つことがどんなにすばらしいと言われていても、無理矢理大きく広げられた心は破けてしまうんじゃないか。
自分を成長させるためにも多少の背伸びをするのは悪くないけれども、心においては自分のキャパシティを少しでも超えるとショックを起こしがちだと思う。
だから、まずは現状を認めることから始めるべきだと思う。
嫉妬は醜い感情なのかもしれないけれども、嫉妬を認めないのもまた醜い感情なのかもしれない。むしろ無かったことにしてしまうことで醜さは増すと思う。醜いなんて主観でしか測れないけど。
そして何よりも、感情を偽ることで最も自分が苦しくなる、私は。
全員が今の時代における「満点」を付けられる答案を用意できるわけないんだから、人それぞれでいいじゃないか。もちろん、開き直りは論外だけど。
それから、決して最初からそこに逃げるわけではないけれども、「満点」以外にも努力要素はさまざまなベクトルに伸ばせるわけで、各々のよく伸ばされたものを愛でればいいと思う。
明るく元気に
明るく元気に振る舞うことが好まれ、物事は結論から話すのが良しとされる時代です。
確かに、ずーっと同じことで愚痴をこぼされていたら参っちゃうし、物事を簡潔明瞭に捉えて先に進んで行かないと、
国際社会から取り残されてしまいます。
けれども、日本人は明るく簡潔にというのが苦手な性質を持っているとも言われてきました。
しかし、ゴニョゴニョ話すのは許されづらいし、器用に明るさと簡潔さを手に入れられた人から、はっきり喋りなさいよ!と叱咤され。
個人的には外から見える明るさなんかどうだっていいと思うのです。
スイッチを点けるように声を張り上げて挨拶をするファーストフードの店員さん、口角を限界まで上げて応対する銀行の受付係。
マニュアルに沿われた丁寧な対応は、安心とともに相手が人間であることをぼやかしてゆくと思うのです。
もちろん、マニュアルは一定の基準を満たせるし、もはや職務の円滑には欠かせないものでしょう。
ですが、無理な明朗快活を私生活に持ち込むことは必ずしも得策ではないと思います。
挨拶運動における小学生の大きな声と軍隊における点呼に似通った香りを感じませんか?
言い過ぎか。
私たちが本当に欲しているのは、かぐや姫の入った竹みたいに内から輝く明るさであり、外側の愛嬌とか愛想とかそういうものでは語れないと思うのです。
そしてそれは、誰に求められても必ず応じられる魔法のランプの精みたいなものではなく、あくまで自発的に待たねばならないものだと思うのです。
ハウツー本
今日読んだ演劇の入門書は難しく、正直わからない箇所が多かったです。
どういう風に難しかったかというと、感覚として理解しなければならない演劇の構造を上手くつかめませんでした。原因は演劇について自分が知識、経験ともに無いこと、感性が鈍いことだと思うのですが、それだけではないはずです。
ですが逆に、誰にでもわかるようには書かないこと、誰にでも理解できる内容のみを書かないことがむしろ誠実さの証のように感じられました。
演劇についてよく知らない私が言うのはおこがましいですが、それは演劇という感覚の世界のことだからこそ、そう感じるのです。
世の中に流布するハウツー本というものは、初心者にわかりやすく技術を教えてくれます。目次には番号を振られた章立てが並び、準備すべき道具やそれらがどこで入手できるかまで、事細かに丁寧に書かれています。
最近では、漫画の描き方も脚本や小説の書き方も、そういったハウツー本が数多く出版されていますよね。
それらを読めば、一通りの型を学ぶことができます。
ですが、演劇や漫画、脚本、小説など、感覚の関わる分野に関しては、型を学ぶだけでは外枠の完成にもならないと思うのです。
もし型を用いようとするなら、先人の型に行き着くまでの心情を自然となぞれるような感覚を身に付ける必要があると思います。
たとえば、漫画では、登場人物の心情の盛り上がりを表現するために、コマを大きくしてはみ出さんばかりの効果線を入れます。そんなとき、それを決まりごととして丸暗記して使うのではなく、自然とそう描かざるを得ない感覚になるということです。
演劇だと、その歴史の古さと演じるという複雑さから、物凄い量の感覚が詰め込まれたルールがあるはずです。
本当は、そういう感覚はたくさんの作品に触れることで身に付けなければいけないことなのかもしれません。
ともあれ、かくあれ、今日読んだ本は、こういった感覚を含めて言語化されている点がとても凄いと思います。
上手く言えませんが、それは作品の体裁を整える以上に大切にしなければ、作品として在る意味が薄れてしまう気がするのです。