フテブテの歩み

文筆/脚本/シナリオ/演劇///ハンドメイド/タロット​ ◆表現ユニット燃ゆる塵芥主宰 HP→https://yukifutebute.wixsite.com/yuki-fute-bute

抽象的な事柄 (続 象徴か装飾か)

抽象的な事柄は解釈の幅が広がってしまいます。

前に似たようなことを「象徴か装飾か」で書きました。

表現できないことをなんとか言葉にしようとして抽象的に言わざるを得ないのと、

ただ抽象的な表現が好きで物事をぼかして表現するのと、

そもそも主張が定まっていないもしくは主張なんか根っから無いのに仰々しく語るために抽象的に表現するのとでは、

在り方が全く異なるということです。

 私は1つ目を「象徴」、3つ目を「装飾」と捉えました。2つ目は主張があるかないかの状況によりけりで「象徴」か「装飾」かが異なると思います。

 

ですから、昨日は「抽象な複雑な作品に逃げてたまるものか」と言い残した私ですが、抽象が必ずしも悪いとかいいとかそんなことは思っていなくて、

昨日の言葉で言えば、

文学の尊さを崇め奉らせるような狙いのもと、敢えてわかりづらく抽象的に作品を書くことで、さもわかっているふうを装うことはするものか

ということです。

 

知識の面でも、難解な言葉が並ぶとそれだけで抽象と同じくらいの尊さを感じさせてしまいます。ですから、難解な言葉においても「象徴か装飾か」論が展開されます。

難解な言葉でしか表現できない事柄なのか

難解な言葉の雰囲気が好きで用いているのか

難解な言葉によって受け手が圧倒することを狙っているのか

1つ目は象徴というか必然性があり、3つ目は装飾的意味合いが強くなり、2つ目はやっぱり主張の大きさで変わってくると思います。

 

 象徴と装飾の個人的な向き合い方は前に書いたので置いておくとして、

 

よく聞く、

難解な言葉を誰にでもわかりやすい平易な言葉に置き換えて説明せよ、

というのは、1つ目以外の場合に向けて言われていると思います。

確かに恣意的に難解にされることで、主張は伝わりづらくなります。何か伝えたいことがあるなら、万人にわかりやすくせよという意見もわからなくない。

しかし、それは装飾の耽美であることを知らぬから、書き手の中には装飾の耽美を大事にしている者がいることを想像しないから言えることだとも思います。

四六時中「私のことわかってよ、バカバカバカ」とでも言っている人は例外ですが、ただ好みとして装飾を用いている人に対して、わかりやすさを要求するのは、

ファッションにこだわりを持ち、トイレのとき面倒くさそうな長いスカートを引きずったりラーメンをすするとき邪魔になりそうな長い髪を下ろしている人に対して、「動きづらいからジャージを着なよ」と言っているようなものだと思うのです。

本人が利便性より美しさを求めているなら、そしてそれに文句をつけないならそれでもよくて。

 

というか、ファッションには装飾が理解され、文章には難解さという装飾に苛立ちを感じられるのはなぜなのでしょう?確かに、仕事中も敢えて難解な言葉を選んで使われたりするのは避けたいですが。

まあ、授業でも小説を嫌というほど読まされますし、「なんでこの筆者、帝大主席卒業のくせしてこんなわかりづらいこと書くんだよ、バカバカバカ。凡人に優しくしろ」って思うのもわからなくはないですけど。

 

人にはいろんな思いといろんな特性があって、できること、できないこと、できてもやりたくないこと、いろいろあるから、みんな違って複雑に絡まっているから、完全に理解できないのだと思います。

そして完全に理解できないことを念頭に置いておかないと、理解できないことに対して理解させるような説明を求めてしまうこともあるのだと思います。

それは、完全な理解を求む教育の成果とも言えるし、そうしないと文学を教材として扱うことが難しくなることもわかるのですが。

書くことの傲慢さに向き合(おうとしている状況)

書くという行為は傲慢な一面もある

と改めて感じます。

 

ご存じの通り、書くことは自分のターンを自分で調節できるので、好きな範囲のみ述べることを許してくれます。紙の上を操る創造主は自分自身だから、好きな方向に舵をとれるし、好きなところで止められます。

ですから、書くことは良くも悪くも独りよがりになりがちなのではないでしょうか。

とは言っても世間の目に触れるものは、社会的なデメリットを考えて緊張感のある文章にしたり、模範的なテンプレートな文章にしたりと、これまた自分の手によって操縦され、調整されることが多いので、大抵、独りよがり感が出にくい文章に仕上がりますが。

なので、反対に匿名の文章や趣味で書かれた文章は、独りよがりになりがちだと思うのです。独りよがりなことが必ずしも悪いとは思いませんが。

 

私小説においては、主人公への客観視のない小説を評価しないという傾向があるそうです。私は、これが独りよがりな文章を評価しないという意味に思えます。

「自分を重ねた主人公=自分」を絶対的な正義として書かれた文章は、自分のご都合主義で書かれているので、読んでいて滑稽に思えるのではないでしょうか。もちろん、それだっておもしろいものはありますが。

例外もたくさんありますが、自分の悪い評価、つまりは痛々しさと向き合うのが文学であるとも言えると思います。

 

 

それから、人類の歩みの中で書くことは話すこと以上に重きを置かれてきたので、書くことに謎の尊さがこびりついてしまったとも言えると思います。

 

文学は高尚なもの、俗人に理解できないものとして、芸術的な側面を持っています。その尊さは一人歩きし、文学を得るのではなく文学の尊さを得ようとする動きが生まれてきたように感じます。

そして、受け手も反射的に文学の尊さを念頭に置いて文学に接するものだから、文学の尊さは維持され続け、尊ばれるにそぐわないものですら尊ばれていることもあります。それが文学を傲慢にさせているとも言えると思うのです。

 

片や、文学部はどの大学にも設置されながら、役に立たない学部として名を馳せ、もはや文学の尊さすら得ようとする者が減っています。しかも少数の文学の尊さのみを得ようとしている者は、ますます世間に文学を曲解させていくと思います。

 

 

文学を含め、書くことはそのものの価値ではないところが大きく膨らんで目立ってしまったことで、本来の書くという行為に目がいかなくなってしまったのだと思います。

だからこそ、書くことが傲慢だと感じられるわけで。

傲慢でない書き手であるためには、自分にとって苦しいことも認めて書く必要があり、書くということに甘える自分と向き合う必要があるのだと思います。

相手のペースで話せないから書くんだという弱さを知らないと、私は自分に申し訳が立ちません。そしてそれでも故意に抽象的な複雑な作品に逃げるものかと思うのです。

今日もケバブ。

ニコニコしてると搾取されてしまう。

でも付け入られないように怖い顔して歩くのもなんだかな。

 

ワンワンはニコニコしてると愛される。散歩してるワンワンが尻尾をフリフリしていると、あーかわいいねーって愛でられる。たとえ毎日道端に落し物をしていても、そしてそれが飼い主によって持ち帰られることがなくても、気付かれなかったら愛でられる。

 

人間もニコニコして歩いていれば愛されるといいのに。

若くてかわいい女の子がニコニコ笑ってたら缶コーヒー奢ってもらえる。

ニコニコしてるイケメンはお弁当屋さんでオマケしてもらえる。場合によっては、無表情でもオマケしてもらえる。

それ以外の人は?ニコニコしてたらヘラヘラしてんじゃないよって注意されない?ニコニコしてると舐められない?

 

ニコニコしてると搾取されてしまうことがある。

この人からなら肉を削げるって思われてしまう。削げるだけ削ぎ取られてしまう。

人として舐められてるってことなんだろう。骨だけ残って捨てられる。もしくは鍋に入れて、出汁を取られる。そして捨てられる。

 

利用されることは辛いけど、まだ単純明快かもしれない。

利用すらされないのに、ただただ感情の赴くままに肉を削がれるとただただ哀しい。

 

互いに向き合った結果、削がれるなら仕方ないように思う。それは搾取というより、因縁で。因縁なら、ニコニコしてなくても削ごうとしてくるはず。実際に因縁をつけるつけないはともかく、どんな相手にでも因縁をつけられる度胸と心構えで言葉を紡ぎたい。逃げちゃうこともあるけど。

 

ただただ舐められて削がれると感傷に浸りたくなる。

傷つかないように般若のお面を付けて歩く人も否定できない。

舐められたくない気持ちはわかる。

でも去勢を張るのはもううんざり。

 

何と戦っているのか、さっぱりわからないのです。

異なる意見を取り入れるか否か

生活や仕事上の効率化に役立つことは、幾らでも人の意見を取り入れられる。利便性の向上や時間の短縮を嬉しく思う。

 

けれども、どうしても精神的な在り方になると、人の意見を取り入れられない。自分を押し通す形になってしまうことが多いし、押し通せない場合は関係が切れてしまうことも多い。それでも尊重はし合えるので、ウチはウチ、ヨソはヨソでやってゆけばいいし、そういうときだってあるのだけど。

 

精神的な在り方だって、共通認識があれば意見を聞くことができて、取り入れられるときもある。でも自分の考えとは全く違うところに重きを置かれている意見は理解できても、魅力的に感じないことがある。

それは自分と違うから排除というわけではなく、ただ単に好みの問題なのかも。

 

だからって自分と意見を異にする人と話すこと、意見を交わすことを止めようとは思わない。むしろ積極的に取り組みたい。

 

話は飛ぶけど、相手の魅力というより、相手の魅力的だと考えているものを知ることの方が、相手を理解できるのかもしれない。

そしてその好き嫌いにかかわらず、相手にとっては魅力なんだなーと頭の片隅に置いて、お互い話せれば、押し付け合うこともなくなるかも。

続 続けること

継続はそれ自体が周りに尊いことだと言ってもらえるし、なかなか認めてもらいにくいジャンルの物事を認めてもらいやすくする変換手段になると思います。

けれども、その心理を利用して、何らかの継続が実績になると狙って行動するのは、継続の価値を根本からぐらつかせることになってしまうのではないでしょうか。その心が見えた時点で、「継続は力なり」という言葉の中の「力」とは、継続による能力向上の他、価値がなくなってしまうと思うのです。

 

つまり、人は継続の精神的な尊さを信じるからこそ、どんな小さなことですら継続する人を認めるのだけれども、その継続をする動機が不純だと、そもそもの継続の精神的な尊さが無くなってしまうと思います。だから、継続の全てが尊いと言い切ってしまうのは危ういのではないでしょうか。

強いて言うなら、「持続力という精神的強さが身につく」というのが継続に対する評価であり、継続をしようと思った純粋な精神の尊さの有無には触れなければ、継続の価値が保たれるのではないでしょうか。

 

だから根拠なくなんでもかんでも続けなきゃならないって言うのは、理由もわからず目の前の問題を丸暗記するその場しのぎと一緒で、そんなことで騙せてしまう人はあなたが心の底から努力したときの努力の大きさをわかってくれないのではないかと思うのです。

続 健康で文化的なメンヘライズム

苦しいも辛いも普通の感情。

でもいつまでも苦しみ続けたり、苦しみを外に出して人に伝え続けたりすると、嫌悪されてゆく。

メンヘラが嫌われるのは、多分それ。

 

健康なメンヘラとは、苦しみをとことん抱きつつも、苦しみに終わらず、苦しみの種を取り除き、苦しみをより良き苦しみに改善してゆくこと。

 

文化的なメンヘラとは、人と関わる以上、最低限の人への気遣いをする覚悟を持つこと。大切にしたい相手のために、ときに苦しみの伝え方を考えること。辛いと言うタイミングや頻度を考えること。

 

健康で文化的なメンヘラは、悩むことで自分を磨き、自分を偽らず人にさらけ出せる素敵な人。

朝日を浴びなくたって、輝ける。

対等ってなんだ。

どうも新人類です。

 我々新人類は、誰に対しても対等な立場を要求する傾向にあるそうです。

 親、教師、上司といった目上の立場の者にも、対等でない扱いをされることを許さないそうです。

 

昭和の方々は目上の言うことに絶対なので、態度まで含めてハハァ🙇って思って接している感じがします。態度という人生訓ごと尊敬していますというか。

でも平成メンツは目上の言うことを参考にしつつも、態度は対等に保つべきじゃないかと思っているのではないかと。

 

うーん、世代観ギャップ。

 

どっちの意見にも賛成には注釈が必要になると思う。

 

そして平等と対等は違う。

平等とは双方が受け取る量の上で同等であることを保っている状態、対等とは双方が全体的に同等の重さであることを保っている状態。

つまり、平等とはスタートからゴールまでの走る長さが誰しも同じであるということ、対等とはスタート地点は人によって異なれども、ゴール地点は一律に同じであるということ。

 

なので、対等な関係性と平等な関係性をごっちゃにしていると、不満が起こるのではないか?

平等とは、誰しもに同じだけの量を与えることだけれども、対等はその人によって与える量が違う。各々が吸収できるだけ与える。

そう考えると、この場合の意味での対等とは優しさなのだと思う。