フテブテの歩み

文筆/脚本/シナリオ/演劇///ハンドメイド/タロット​ ◆表現ユニット燃ゆる塵芥主宰 HP→https://yukifutebute.wixsite.com/yuki-fute-bute

異なる意見を取り入れるか否か

生活や仕事上の効率化に役立つことは、幾らでも人の意見を取り入れられる。利便性の向上や時間の短縮を嬉しく思う。

 

けれども、どうしても精神的な在り方になると、人の意見を取り入れられない。自分を押し通す形になってしまうことが多いし、押し通せない場合は関係が切れてしまうことも多い。それでも尊重はし合えるので、ウチはウチ、ヨソはヨソでやってゆけばいいし、そういうときだってあるのだけど。

 

精神的な在り方だって、共通認識があれば意見を聞くことができて、取り入れられるときもある。でも自分の考えとは全く違うところに重きを置かれている意見は理解できても、魅力的に感じないことがある。

それは自分と違うから排除というわけではなく、ただ単に好みの問題なのかも。

 

だからって自分と意見を異にする人と話すこと、意見を交わすことを止めようとは思わない。むしろ積極的に取り組みたい。

 

話は飛ぶけど、相手の魅力というより、相手の魅力的だと考えているものを知ることの方が、相手を理解できるのかもしれない。

そしてその好き嫌いにかかわらず、相手にとっては魅力なんだなーと頭の片隅に置いて、お互い話せれば、押し付け合うこともなくなるかも。

続 続けること

継続はそれ自体が周りに尊いことだと言ってもらえるし、なかなか認めてもらいにくいジャンルの物事を認めてもらいやすくする変換手段になると思います。

けれども、その心理を利用して、何らかの継続が実績になると狙って行動するのは、継続の価値を根本からぐらつかせることになってしまうのではないでしょうか。その心が見えた時点で、「継続は力なり」という言葉の中の「力」とは、継続による能力向上の他、価値がなくなってしまうと思うのです。

 

つまり、人は継続の精神的な尊さを信じるからこそ、どんな小さなことですら継続する人を認めるのだけれども、その継続をする動機が不純だと、そもそもの継続の精神的な尊さが無くなってしまうと思います。だから、継続の全てが尊いと言い切ってしまうのは危ういのではないでしょうか。

強いて言うなら、「持続力という精神的強さが身につく」というのが継続に対する評価であり、継続をしようと思った純粋な精神の尊さの有無には触れなければ、継続の価値が保たれるのではないでしょうか。

 

だから根拠なくなんでもかんでも続けなきゃならないって言うのは、理由もわからず目の前の問題を丸暗記するその場しのぎと一緒で、そんなことで騙せてしまう人はあなたが心の底から努力したときの努力の大きさをわかってくれないのではないかと思うのです。

続 健康で文化的なメンヘライズム

苦しいも辛いも普通の感情。

でもいつまでも苦しみ続けたり、苦しみを外に出して人に伝え続けたりすると、嫌悪されてゆく。

メンヘラが嫌われるのは、多分それ。

 

健康なメンヘラとは、苦しみをとことん抱きつつも、苦しみに終わらず、苦しみの種を取り除き、苦しみをより良き苦しみに改善してゆくこと。

 

文化的なメンヘラとは、人と関わる以上、最低限の人への気遣いをする覚悟を持つこと。大切にしたい相手のために、ときに苦しみの伝え方を考えること。辛いと言うタイミングや頻度を考えること。

 

健康で文化的なメンヘラは、悩むことで自分を磨き、自分を偽らず人にさらけ出せる素敵な人。

朝日を浴びなくたって、輝ける。

対等ってなんだ。

どうも新人類です。

 我々新人類は、誰に対しても対等な立場を要求する傾向にあるそうです。

 親、教師、上司といった目上の立場の者にも、対等でない扱いをされることを許さないそうです。

 

昭和の方々は目上の言うことに絶対なので、態度まで含めてハハァ🙇って思って接している感じがします。態度という人生訓ごと尊敬していますというか。

でも平成メンツは目上の言うことを参考にしつつも、態度は対等に保つべきじゃないかと思っているのではないかと。

 

うーん、世代観ギャップ。

 

どっちの意見にも賛成には注釈が必要になると思う。

 

そして平等と対等は違う。

平等とは双方が受け取る量の上で同等であることを保っている状態、対等とは双方が全体的に同等の重さであることを保っている状態。

つまり、平等とはスタートからゴールまでの走る長さが誰しも同じであるということ、対等とはスタート地点は人によって異なれども、ゴール地点は一律に同じであるということ。

 

なので、対等な関係性と平等な関係性をごっちゃにしていると、不満が起こるのではないか?

平等とは、誰しもに同じだけの量を与えることだけれども、対等はその人によって与える量が違う。各々が吸収できるだけ与える。

そう考えると、この場合の意味での対等とは優しさなのだと思う。

被害者意識に塗れていてごめんねごめんね

犬のように吠え、猿のように鳴いています。野蛮人と呼ばれ、コンクリートジャングルで捕獲も駆除もされず、鳩のように餌を与えても貰えず、誰かの家の中にこっそり侵入すると新聞紙で叩かれ、という被害者意識に塗れてると言われそうな気分でいます。今日も醜くテカってる。美しくないのに変に目立ってるのかも。他の人のことなんて、そこまで見てないか。

 

人のように黙って祈ることができず、欲は無いのに、イツモ怒ッテルナウ。静まれ、落ち着け、とにかく冷静になれ、人を不快にさせるな。

周りに不機嫌な顔して疲弊させてしまうなら、まだ好かれたいがためにニコニコしてた方がいい。それはツマラナイカラ、ヤメロとは口が裂けても口がさけるチーズになっても言えない。はい、チーズ。笑って笑って。

 

オンナノコの宝箱的な散文風にごまかしても、フォトショの加工はバレてるし、元は泥だんごだって見抜いてる人もいる。やめて、麺とヘラを送りつけないで。なんてわかりやすい。麺は食べるよ、オンナノコ、メン好き。面!面!面!取ってください!撮ってください!

 

今だ!!!

 

とりあえず壮大な草原を思い浮かべるから、準備はいい?みんな一緒に、はい、チーズケーキ、ミックスベリーとマシュマロ添え♡!!!

パシャパシャパシャパシャ!!!!!!

気の強い

小学校の頃か中学校の頃か、保護者同士の集団で喋る様子を見て、とあることに気づき、愕然としたことがある。

幾つになっても、気の強い者が勝つということだ。(例外も多々あり)

保護者の集まるその場を仕切り、PTAの中でもグイグイ意見を放つマダムは、かなり気の強い女子の母親だった。

今度ここにランチ行きましょうよ!バザーは持ち寄りね!!私は会計の係をやるわ!!

ガンガン決められてゆく。

助かる面も大きい。特にPTA の役員をやりたがらない保護者も多いので猶更。

教師も感謝している。役員はそのまま引き受けて貰いたいので、多少強引なやり方でも下手に口出ししない。ただ、役員の子どもにも口出しをしづらくならなければいいとは思う。

 

気の強さは技術でもないのに武器になる。

ジャイアン的ではない強さだ。

特に女子のヒエラルキーはかわいさだけじゃ上に昇れないことだってある。腕力よりも、気の強さが必要なのかもしれない。最強コンボは、「かわいい×気の強い」なんじゃないかと思う。

 

気の強いことは必ずしも悪いことではないと思う。

けれども、気の強いことに対して味覚音痴になってはいけないのではないか。

気の強い女性肯定派否定派にかかわらず、どちらも「気の強い」「気の弱い(か弱い)」ということをフェチズムとして、好みの方をそのまま受容してしまっている気がする。

それでは、たとえば気の強い女性の中でも、芯の通った気の強さなのか、自分に従わせたいという気の強さなのか、判別がつかないと思う。

承認欲求高め

認められればなんでもいいってわけじゃない。大勢に認められても仲のよい人に認められても必ずしも満足するとは限らない。

 

正しく褒めて欲しい。わがままを言うと、力の入れているところを正しく褒めて欲しい。自分の心のお気に入りをくすぐられたい。

でも正しくけなしてくれても同じくらい嬉しい。

 

正しいっていうのは、人それぞれでよくて。でもどんな正しさの中にも、相手がどんな考えでそこに至ったかを察するということが含まれていて欲しい。それはつまり、自分の正しさを断定し切らないということでもある。特に作品の評価は推測の上に始まるものなのだから。

 

純文学の新人賞の批評は、よく作家によって評価の差が激しいことがある。それは、純文学というものの性質が己の心の開示であるからである。だから著者という1人の人間が自分にとって好みかそうでもないか大嫌いかが、評価に関わることだだってある。

でもそれを乗り越えて批評していることだって一杯ある。新しい文学を書こうともがこうとした、つまりは文学というものの在り方を新しく提示しようとしたということを評価したり、何を書きたいのか汲み取り、その表現の巧みさに感銘したり。

さまざまな方向から批評し、1番伝えたかったことをドーンと書いたのが、あの純文学の短い書評なのだ。

だからこそ肯定も批判も同じくらい尊い。特に批判は大勢のファンを持つ作家が、自分の人気の落ちることも承知で放つ。もちろん、それも正しいけなし方が前提だけど。