フテブテの歩み

文筆/脚本/シナリオ/演劇///ハンドメイド/タロット​ ◆表現ユニット燃ゆる塵芥主宰 HP→https://yukifutebute.wixsite.com/yuki-fute-bute

物真似と臨模書の関係性(アウェアネス)


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王義之「蘭亭序」を鑑賞。

「蘭亭序」は真跡(オリジナル)が残っていない。

では何を観るのか、臨模本それぞれの特性を観る。

以前は模倣品の個性を見つけるって???と思っていたけど、何度も観るうちに腑に落ちた。

臨模本の比較は、ご本人登場のないパターンの物真似ショーに近い。

タレントの物真似の方法は皆、異なる。ビジュアル寄せ、声寄せ、しぐさ寄せetc.

総合点で似ているか否かがぼんやりと判断される。

本人の特徴のうち、どこを膨らますかどうかで完成品が微妙に異なるが、それによって本人が更に浮彫りにさせられ、おもしろい。本人がいないことで、それが浮かび上がってくる。

学ぶがかつて「まねぶ」であったように。

まねぶことは、楽しい営みで、物真似も演じてる側が一番快感を得ているのではないか(物真似タレントって皆、いきいきした表情してる)。

 

中庭で、花とモーテルが桃色を競い合っていた。

モーテルに囲まれた春の書道博物館にて。

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『岸辺のアルバム』を観て

山田太一の作品は、いつも最後の最後まで登場人物の行動や言動にもどかしさを覚える。
人は問題に気がついていても、わずかばかり変われたらいい方だ。
100点はなかなかとれないものだと、その現実を再確認しているようだ。
 
ストーリーの骨組みを大雑把に捉えると、「問題→解決(破滅)」へと向かっていくことが多いが、山田太一の作品の骨組みは岸辺のアルバム含め、グラデーションがかっていて振り子が揺れるようにラストに向かっていく。
ハッピーエンドとも言い難く、しかしバッドエンドとも言い難い日常が今までとは少し形を変えて流れていく。
 
一定のクオリティが保たれる可能性の高い、複数人がアイディアを持ち寄りブラッシュアップする欧米型のシナリオ制作には出せない味だと思う。
 
私は、この靄のようなものを時折ぼうっと眺めていたくなる。

『ひよっこ』を観て

脚本家、岡田惠和の魅力は、「葉っぱの上のテントウ虫をそうっと虫眼鏡ごしに観察したときに、ゆっくりと、しかし確実に小さな手足で前に進んでいるのを見つけて微笑ましく感じた気持ち」、そのようなものだと思う。

 

登場人物たちは各々が苦境に立たされながらも、喧噪溢れる日々の中、流されてしまいがちな細やかな感情を丁寧に掬い取り、ささやかな幸せとして大切にしながら生きている。

 

ひよっこ』の前半(第1週~14週あたり)も同様に、登場人物たちは他者と己を比較することなく、朗らかに日々を送っている。

主人公のみね子は貧しい農家の生まれながらも、家業である畑仕事の手伝いに喜びを見出しているし、無理して高校に通わせてくれた父に感謝をしている。

 

鑑賞者は岡田惠和が手にしている虫眼鏡の脇から、朝露と同じような儚さの生き物たちを、そうっと見つめていたいのだ。

 

私たちの身辺には、日々、諸々の娯楽が手の届くところに溢れかえり、クラブ・ショー・モールetc……煌びやかな祭りがそこら中でギラギラしている。

365日がハレの日となった私たちに、ささやかな日常の幸せを喜ぶ心はもはや残されていない。

だからこそ、フィクション上のみね子を望み、そこから目が離せなかった。

 

最後の1か月に放送さえたストーリーは、夢を叶えたり、結婚をしたりと、登場人物たちそれぞれが、現代の鑑賞者から見ても幸福と感じられる大団円へと進んでいった。

登場人物たちが幸せになるのは良いが、皆の幸せという形が社会的にも喜ばしい成功へと変わってきた。

たとえばみね子の親友の時子は、女優になった。

しかし、安直に女優にさせない方が、(もしくは女優になったとしても、その内側を細やかに描くことで)岡田惠和の筆風を生かした幸せを描けた気がする。

 

幸福の到達点が自分軸から社会軸に移り変わってしまったことで、後半のストーリーが失速したように思う。

 

物語も、人間も、第一印象が要だとは言うけれども、同じくらいラストも重要であって、

その人にしか書けない世界が構築されていればされている箇所ほど、この作品に夢中になって観ていた。

ストリップ

女性の裸体には、アメノウズメが岩屋戸からアマテラスを導いたように場を操る力があり、それと同時にウズメが裸体で踊ったのを「如何にも滑稽である」と神々が笑ったように、裸には人々を笑顔にする力も滑稽さも存在する。

 

ステージに現れた裸にはなんらかの力を感じつつも、そのように観ていいものか、ディズニーのパレードのように視覚的に楽しむものなのか、とにかく見慣れていない裸を直視することができなかった。


踊り子が舞台に立つために大変な努力をしているということは、ステージ上の一つひとつの動作からもその体つきからも伺い知れる。


舞台の生の価値がこれほどまでに存分に生かされている媒体はないのではないだろうか。

AVの中心は世界の隅々まで散らばった観賞者各々のホーム。

対して、ストリップは今、ここが中心。

 

踊り子が香水を振りまいているのか、空間演出か、甘い香りがどこからか漂ってくる。

 


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21Lessons

2020年4月のこと。
世界が激変し、これからは今までと違う価値観を手に入れ、なんとかやっていかなくてはならないと考えるようになった。悪あがきに過ぎないが、そのために考える力を蓄えねばならず、ヒントになりそうだと一冊の本を手に取った。

コロナもITの発達も、それ以外のさまざまな形でも、新たな何かが生まれるたびに物語は崩壊する。そして、栄枯盛衰、再び新しい物語が生まれる。
しかし今、コロナとITのどちらにも、未来への光である新しい神話は生まれていない。


21Lessonsは現代の諸問題を理解するための入門書であり、現代人の必読書と謳われているが、筆者の最も伝えたいメッセージとは、
今日も明日も時代を読め、そのために瞑想せよ、観察し、調べることを徹底せよということだった。


このまま行くと社会の歯車にすらなれず、だんだんとアルゴリズムに意思決定を委ねていくことで、自身の内側……たとえば意見を持つことも趣味嗜好さえも薄れていって、凹凸の取れたピースとも呼べない物体になってしまいそうだ。

社会秩序と自己観察は相反するものだが、社会参画しつつも自らの心のバランスも崩さないように、社会を俯瞰し内省し、そうやって日々を見つめていこう。


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小劇場の集客は難しい。

 

私はコロナ以前、小劇場界隈で演劇をしていた。

※大事な前置き
まずどのような公演でも全てのお客様にとても感謝していた。

一部の売れてる団体を除き、小劇場の主な観客は、
①何を観ても「楽しかった」と言ってくれる謎なくらい優しい演劇好きのお客様、
②付き合いで知人の公演へ行く演劇人、
③お綺麗な女性出演者(もしくはイケメン俳優)との役者面会や触れ合いを楽しみにしている男性ファン(あるいは女性ファン)、
④最初からアンケートを本気で書く気でお越し下さる劇団推し(というか正しくは演劇推し?)タイプのお客様、
で8割方を占める。

私は大した人間でなく、むしろグータラな人間であるけれども、ずっとパッションのような人生で譲れないもののような、言語化しがたい何かを観て欲しいと思って演劇をしていた。

けれども自分の力不足ゆえに、そういったことを観てもらえないことも多かったような気がする。(しつこいけれども、どんな目的であれ、観に来てくださったことは尊く光栄なことだった。)
だから、どうすれば観て欲しいものを観てもらえるのか、今後演劇をするのか、他の媒体で活動をするのか全くわからないけれども、とにかく考えたいと思う。

おしまい。

なんにも解決できないからクッキーを焼く。

 

私見だけど尾崎豊で一番おすすめの曲は、15の夜でも卒業でもなくてCOOKIE


最近、尾崎豊の記念碑の前を毎日通る。

再開発の進んだ渋谷の街だけど、ここだけは私が生まれる前から時が止まったかのようにそのままで、落書きだらけの懐かしいシブヤが残ってる。
現代への哀しみばかりが込められた歌なのに、何故か優しい。そして温かい。

世界は絶対に解決できないことだらけだけど、だからせめて尾崎は愛しい人にクッキーを焼いて温かいぬくもりが欲しかったんだね。

 

COOKIEを聞くと30年前に死んだ尾崎が浮かび上がってくる。

だから私もクッキーを焼く。
でも本当はクッキーじゃなくても、おはぎでもチュロスでもなんでもいいんだろうね。

 


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おめでとう、私の大事な人。
けれども大事にするのはとっても難しいね。