フテブテの歩み

サワユキ。文筆家。表現について、生きることについて、真剣に、楽しく、強く。

紅テント

名高いテント芝居、唐組の「吸血姫」を観に行きました。

新宿花園神社の境内に立てられた紅のテントにて、桟敷席に200人近い人間を詰め込んで上演されました公演は、目の前に柱があってよく見えないわ、外のバイクの音がやかましくてよく聞こえないわ、むんむん蒸し暑いわ、多分他の演劇団体だったらクレームの嵐なのですが、そんなことを感じさせない舞台のクオリティと熱とでテントの中が紅に染まっていきました。

そしてそんな観劇環境にもかかわらずなぜ満足度が高いのかと言えば、舞台のクオリティの高さもありますが、やはり劇団員一人ひとりが己の体の全てを費やし、舞台だけで食う覚悟で全てをこなしているからではないでしょうか?
チケットのもぎりや場内案内、機材の操作までこなし、終演後は汗をしたたらせながら靴袋を回収するあの熱があるからではないでしょうか?


資本主義経済においては、いかに少ないエネルギーでいかに最大の効果を挙げるかが、その人物の評価や賢さに繋がっております。
なので、人々は汗をかかずにたくさんのものを得ることを鼻高く思っている。
ビジネスにおいては大事なことであり、我々もその恩恵を受けておりますが、それを表現の場に持ち込んだとき、表現は熱のない冷めたインスタントなものになってしまいます。

表現は人の心を動かす狂気であり、狂気は狂ってならねばいけません。狂気は要領よく手を抜いて、計算しながらできるものではないのです。

そしてお客様に心地よく見て頂くサービスと面白い舞台を作るサービス、どちらを優先するかところどころに順位をつけねばならないと思うのです。

劇団としては幾らでも大きな劇場を借りられるようになり、そしてスタッフとして手伝いたい人は幾らでもいるであろう今もなお、見えづらさを差し置いてでもテントにこだわり、ひとりひとりのハードさを気にかけず劇団員たちで全てのスタッフ業をこなすのは、自分たちの求める舞台のために他なりません。

表現をする以上、譲ってはならぬものがあるのだ、全てをサービスにしてはならぬのだ、と改めて理解しました。


このように、情熱とは公演の内容だけでなく、公演の打ち方という外側の部分にも表れるものだと感じ、いたく感動しました。


私はあの情熱こそ信頼だと思っています。

そしてあの汗こそ応援せねばならない表現者としての姿勢だと思っています。

私はこれからも汗をかく人々を見つけては応援します。

それは紅テントではない、まだ名の売れていない人や表現をしていない人もです。むしろ、そういった人こそ応援しなくてはなりません。


紅テントは3500円で畳にぎゅうぎゅう詰めです。

でも決して高くはないのです。ぜひ観て、聞いて、感じてください。

一般感覚

たまーにある一般感覚と異なる感情なとき、あえて一般感覚あるフリをした方がウケがいいけど、そんな「フリ」は2、3年前によく見かけた、AKBのメンバーの名前を知ってると言い、そして無料通話アプリLINEを使っていると若い子に媚び媚びに話しかける中年男性のような違和感ありあり、意図バレバレのステレオタイプ的会話になりつつあるなって、感じる。1990年代のおじさんはたまごっちとポケベルを知っているとコギャルやOLにべしゃりかけるし、歴史は繰り返す。

 

でも一般感覚と離れた感覚が負の感覚、たとえば恋人ほしくないとか、金なんか大していらないとかそんな感情を認めてもらうのは難しくて、「本当は恋人欲しいんでしょ、負けおしみ言って」と言われてしまうので、やっぱり一般感覚に沿った方が純粋な人の心は掴みやすく、しかし嘘を言う私は純粋ではなくて、仕方ないので本当の気持ちをさらけ出すと「負けおしみ言ってぇ」と目を皿のようにされたり、「わかるぅ」と言う、ちょっとヒネた方々に近づかれたりするので、

本当にイヴとかどうでもよかったんだと伝えるためにはどうすればよかったのか?

むしろ今までこんな話をしようと思うまでイヴを意識していなかったはずなのに。それすらも言葉にすると嘘臭い。

しかしだからと言って、黙ってる奴が1番偉いのか?全部見透かしたような顔して、ぼんやりしたニュアンスを漂わせ、自分の土俵だけでモノを言ってるようなする奴が。

人の良さを認めず下に見るような人間が、心のつながりとか愛とかを掴めるのか?ニュアンスの愛とか掴めない綿のようなものを掴んだフリして手に持ってるフリしてもったいぶって見せないんじゃなくて見せられないんだ、存在しないから。

そういう人に負けないで欲しい、全国の無鉄砲。

表現への情熱を愛するみたいなサムシング

最近、円谷プロウルトラシリーズを片っ端から観ています。

怪獣の背中の棘やら色の付いたスモークやらオープニングの映像やら一つひとつ細かくこだわっていて、作品の世界観のためには地道にどんなことでもしたのだろうなぁ……。きっと意外なものを発想の素にしているものも多いはずで。

 

そうやって物事をゼロから作り上げた人は本当に尊敬します。

天井桟敷の館の寺山修司しかり、日清食品安藤百福しかり。

 

試行錯誤しながらこだわり抜いて作り上げたっていう熱を愛しているから、たまらず触れてしまう。

表現ってそういうものだなあとしみじみ感じます。

日清のカップヌードルも強いパッションが咲かせた花ですし、表現に近いもの、というか表現なんじゃないかと思うんです。横浜にミュージアムもあるし。

 

こんなふうに、表現のどこを愛しているのか愛していないのかっていう話がしたい。

べた褒めでなくても、愛するがゆえの期待を込めた辛い批評とか、愛せない理由とか、とてもいい。

 

逆に、自分を賢く演出する材料としての批評は、または愛のない分析は、伝えるというより押し付けるになってしまうんじゃないかなと思う。

 

どんなところがどう素敵か、素敵じゃないか、

つっかえようが、ぐちゃぐちゃこんがらがろうが、伝えようとする、聞こうとする関係、

お互いに、誠実さだけは対等に、それを聞ける人、話せる人と友達になりたい。

象徴

象徴があると物事は理解しやすい。

ので、もともと象徴のないもの、ただそこに存在するだけのものにすら象徴を見つけようとしてしまったり。

ただなんとなくそこに在るものを、深読みしてしまう。たまたまそうなったと思われているものにも、本当のところ無意識下に目的があったりするのだろうか。

自覚のない行動は一概に卑下されていいものなのか。

キャンパスに描かれた意味深なりんごは、ニュートンの象徴だろうか?それとも天界の楽園の象徴だろうか?それとも作者の大好きなくだものだろうか?

そこに在るだけでも意味があってもそれを思っているという気持ちは少しも違いなく美しいような同じように醜いような。

その人

その人本人に会わない限り、

その時代を知らない限り、

どんなに調べても、想像で補った土台の上にしか、その人物像を感じることができないように思う。

けれども、一生わからないことを探り続けることこそ美しい、とも思う。

 

本人にしてみたらびっくりな、勝手な解釈をしているのかもしれない。

けれども、受けた感動は血として肉として生かされるはずで、

違う時代の違う人間だからこそ新しいものが広がってゆくロマンがあるとも信じたい。

近況/「数」の価値

半年ほど前に毎日エッセイのようなものを書く宣言をし、みっともないことに一ヶ月ほどでやめました。

 

習作のためには、ある程度の出来であってもじゃんじゃん出すべきなのか、納得いく1本を推敲し続けるべきなのか、どちらも一長一短ですが、違う価値観の人に自分を評価してもらうために、「数」は大切であると思います。

 

特にこの半年で応援してくれる人が増えました。その中には、いろんな職業やいろんな立場のいろんな価値観の人がいて、「文章の中身なんか判断できない」と言う人だっています。が、そんなことを言いつつ、私の歩いた痕跡を見て、それだけで応援してくれる人だっています。

伝わらない人に伝えられる手段として「数」があるなら、それだって表現の一部な気がするのです。ので、自分の伝えたい中心では決してないにせよ、大事な人が応援してくれる理由になってくれるなら、「数」だって大切にしたい。

 

半年前よりは幾ばくか、人を不快にさせずに主張を伝えることが上達したと思います。

本当に一歩一歩。

自分が書く数は増やせても、人とは、一人ひとりとじっくり繋がらなきゃいけない。

これからも誇りと自省の念を持たないとならない。

 

更にいろいろな人と関わろうと思って、夏から新しい活動も始めました。

表に出るというのは風にさらされることでもありました。表現の中の1つの世界に飛び込むだけでこうなのだから、本当の意味で外に出たときはどうなってしまうのだろう。

 

とにかく今日も1日楽しく過ごせたことに感謝です。本当にいろんな人にお願いをして叶っている環境、もう少し、心だけでも恩返ししたい。

 

さかなはさかな レオ=レオニ

同じだと思っていたものに違いが生まれるということ、

隣にいたものが離れていくということ、

自分がどうしようもなく取り残されるということ、

世間知らずの想像の中では自分を標準に考える他ないということ、

夢を叶えられない状況にあるということ、

手に入れられる環境を讚美しなくては、生きていけないほど弱いということ!!!!