フテブテの歩み

サワユキ。傲慢な小娘。文筆家。演劇ユニット「燃ゆる塵芥」主宰。

表現への情熱を愛するみたいなサムシング

最近、円谷プロウルトラシリーズを片っ端から観ています。

怪獣の背中の棘やら色の付いたスモークやらオープニングの映像やら一つひとつ細かくこだわっていて、作品の世界観のためには地道にどんなことでもしたのだろうなぁ……。きっと意外なものを発想の素にしているものも多いはずで。

 

そうやって物事をゼロから作り上げた人は本当に尊敬します。

天井桟敷の館の寺山修司しかり、日清食品安藤百福しかり。

 

試行錯誤しながらこだわり抜いて作り上げたっていう熱を愛しているから、たまらず触れてしまう。

表現ってそういうものだなあとしみじみ感じます。

日清のカップヌードルも強いパッションが咲かせた花ですし、表現に近いもの、というか表現なんじゃないかと思うんです。横浜にミュージアムもあるし。

 

こんなふうに、表現のどこを愛しているのか愛していないのかっていう話がしたい。

べた褒めでなくても、愛するがゆえの期待を込めた辛い批評とか、愛せない理由とか、とてもいい。

 

逆に、自分を賢く演出する材料としての批評は、または愛のない分析は、伝えるというより押し付けるになってしまうんじゃないかなと思う。

 

どんなところがどう素敵か、素敵じゃないか、

つっかえようが、ぐちゃぐちゃこんがらがろうが、伝えようとする、聞こうとする関係、

お互いに、誠実さだけは対等に、それを聞ける人、話せる人と友達になりたい。

象徴

象徴があると物事は理解しやすい。

ので、もともと象徴のないもの、ただそこに存在するだけのものにすら象徴を見つけようとしてしまったり。

ただなんとなくそこに在るものを、深読みしてしまう。たまたまそうなったと思われているものにも、本当のところ無意識下に目的があったりするのだろうか。

自覚のない行動は一概に卑下されていいものなのか。

キャンパスに描かれた意味深なりんごは、ニュートンの象徴だろうか?それとも天界の楽園の象徴だろうか?それとも作者の大好きなくだものだろうか?

そこに在るだけでも意味があってもそれを思っているという気持ちは少しも違いなく美しいような同じように醜いような。

その人

その人本人に会わない限り、

その時代を知らない限り、

どんなに調べても、想像で補った土台の上にしか、その人物像を感じることができないように思う。

けれども、一生わからないことを探り続けることこそ美しい、とも思う。

 

本人にしてみたらびっくりな、勝手な解釈をしているのかもしれない。

けれども、受けた感動は血として肉として生かされるはずで、

違う時代の違う人間だからこそ新しいものが広がってゆくロマンがあるとも信じたい。

近況/「数」の価値

半年ほど前に毎日エッセイのようなものを書く宣言をし、みっともないことに一ヶ月ほどでやめました。

 

習作のためには、ある程度の出来であってもじゃんじゃん出すべきなのか、納得いく1本を推敲し続けるべきなのか、どちらも一長一短ですが、違う価値観の人に自分を評価してもらうために、「数」は大切であると思います。

 

特にこの半年で応援してくれる人が増えました。その中には、いろんな職業やいろんな立場のいろんな価値観の人がいて、「文章の中身なんか判断できない」と言う人だっています。が、そんなことを言いつつ、私の歩いた痕跡を見て、それだけで応援してくれる人だっています。

伝わらない人に伝えられる手段として「数」があるなら、それだって表現の一部な気がするのです。ので、自分の伝えたい中心では決してないにせよ、大事な人が応援してくれる理由になってくれるなら、「数」だって大切にしたい。

 

半年前よりは幾ばくか、人を不快にさせずに主張を伝えることが上達したと思います。

本当に一歩一歩。

自分が書く数は増やせても、人とは、一人ひとりとじっくり繋がらなきゃいけない。

これからも誇りと自省の念を持たないとならない。

 

更にいろいろな人と関わろうと思って、夏から新しい活動も始めました。

表に出るというのは風にさらされることでもありました。表現の中の1つの世界に飛び込むだけでこうなのだから、本当の意味で外に出たときはどうなってしまうのだろう。

 

とにかく今日も1日楽しく過ごせたことに感謝です。本当にいろんな人にお願いをして叶っている環境、もう少し、心だけでも恩返ししたい。

 

さかなはさかな レオ=レオニ

同じだと思っていたものに違いが生まれるということ、

隣にいたものが離れていくということ、

自分がどうしようもなく取り残されるということ、

世間知らずの想像の中では自分を標準に考える他ないということ、

夢を叶えられない状況にあるということ、

手に入れられる環境を讚美しなくては、生きていけないほど弱いということ!!!!

1人お悩み相談コーナー

お悩み相談者:自分

聞き役:自分

 

お悩み

落ち込んでるときも、「強くあれ!」って言われ過ぎて疲れちゃいました。確かに人間、強い方がかっこいいかもしれませんが、そういつも強くはいられません。でも、弱い自分に酔っているのも嫌です。どうすればいいですか?

 

回答①

うーん、難しい問題ですねぇ!!!!難しくてわかりません!!

強いて言うなら、「強くあれ!」には、あなたへの期待が込められているのでしょうね。でも、あなたは今現在、何か心が辛いのでしょうから、そういった激励よりも、共感してもらったり甘えさせてもらったりした方が嬉しいのではないでしょうか?もしそうならば、「落ち込んでるので私をいたわってくれませんか?」と素直に言ってみてはどうでしょうか?

 

(続)お悩み

私は落ち込んでる自分をいたわって欲しいのではありませんでした。私が「強くあれ!」と言われ過ぎたことで、弱音を吐けなくなった事実を周囲に知らしめたいのでした。そして、こんなに傷ついちゃったのよ!!!どうしてくれるの!!!と言い、結局人に甘えたいのでした。

 

回答②

正しい正しくないはわかりませんが、あなたはとても素直な人ですね。

とりあえず、どうぞ私の胸に飛び込んで存分に甘えて下さい\(・_・)/

 

(続)お悩み

⊂(・▽・⊂)わーい!!

 

――包容!!抱擁!!!!ほうよう――

 

 

おしまい♥

所属

いろんなモノを凄いと思っていますが、それでも自分の目指したい凄さは自分で見出だすしかないので、既成のモノにしっくり来ないのは良いことだと思うようにしました。

が、先行文献のない学ぴは難しい。本当に難しい。

 

けれどもこのバランス感覚を失って、何かに傾倒してしまう、染まってしまうようでは、私は何かに所属した私になってしまう。

所属が悪いわけでもないのだけれども、所属によって色を決めてしまったとき、とある所属という土地に根を生やすと決めてしまったとき、土地の外側に出かけづらくなってしまうのは避けたいなあと思う。

所属が何かの囲いになってしまったとき、それが思想的な意味で足枷になってしまったとき、表現とは○○派の○○さんになってしまう。それは思想がぴったり当てはまっていたら全然OKだし、方法論を学ぶ上で所属するのも良いと思うのだけれども、そんなぴったり自分という人間の影になってくれたり自分を覆い包んでくれる所属はなかなかないし、所属にそんなことを求めているのがそもそも筋違いなのかもしれない。

形の上の所属はしてもいいけど、本当にピタリと思想も方法論も全てに所属できるわけでなくて、きっと多くの人はどこかはみ出てしまうので、そのはみ出しを受容してくれる所属、いいや、はみ出しこそを育ててくれる所属に所属したいなあとか、桃源郷を渇望するわけですが、まあ所属するかしないかはどっちでもよくて、所属があってもなくても、凄い方々の地図をあくまでも参考にしつつ、自分で決断しなきゃいけないなあと思います。

という、今日も文章を書く自分ってキモチワルイって言いながら書いてしまう自分、それを載せる自分をキモチワルイキモチワルイって言う自分、全然ひっくるめてキモチワルイと思う自分にキモチワルイって感じていますが、自覚だけはありますよって訴える自分がいちばんキモチワルイ。